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嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか 第7回「福留孝介 バットで交わす言葉」

鈴木 忠平
エンタメ 社会 スポーツ

「ホームランは力じゃない」落合の打球は、福留には真似できない軌跡で飛んだ。

 

(すずきただひら 1977年千葉県生まれ。日刊スポーツ新聞社に入社後、中日、阪神を中心にプロ野球担当記者を16年経験。2019年よりフリー。著書に『清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実』、取材・構成担当書に『清原和博 告白』、『薬物依存症』がある。)

《そろそろだろう……》

 福留孝介は時計の針が午後4時をまわると、ロッカールームを抜け出した。チームメイトは食事を摂ったり、音楽を聴いたりしている。試合前の練習を終え、プレーボールまで束の間の休息だ。

 それを尻目に、福留はひとりベンチ裏の通路を抜け、ホームベース後方にあるブースへと向かう。そこはオーナーや球団幹部が観戦するための部屋だったが、この時間はまだ誰もいない。その真っ暗な部屋の中からグラウンドを見る。相手チームの練習にじっと見入る。2006年シーズンの福留は、広島戦の前に限って、その特別な行動を取った。

 
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 福留の視線の先にいたのは前田智徳だった。球界において広く、天才として知られたバッターだ。

 蝉の声が虫の音色に変わる頃、ペナントレース首位をいく中日は後方で離れることなく追いかけてくる足音に苛まれていた。8月半ばに早々と優勝マジックを点灯させ、独走するかに思われたが、9月に入ってから2位の阪神が異様なペースで勝ち始めた。9ゲームも離していた相手が、いつの間にか4ゲーム差にまで迫っていた。マジックは減らず、グラウンドでは日ごとに勝敗の重みが増していく。ベンチでは落合が凍てつくような緊迫感を放っている。選手たちはその狭間で、押し潰されそうになりながら這い進んでいた。

 そんなチームにあって、福留はどこか重苦しさとは無縁だった。

《同じ左バッターとして、あれだけシンプルに打てたら、いいなあ》

 福留はそんな思いで、前田のバッティング練習を見ていた。すでにリーグを代表する打者となっていた福留が、そこまで前田を意識したのは、落合の言葉がきっかけだった。

『もっと数字を残せる。何にしても一流ってのはシンプルなんだ。前田を見てみればいい――』

 前年に、打率3割2分8厘、28本塁打、103打点という数字を残した福留は、このシーズン、さらに無駄を省いたフォーム改造に取り組んでいた。その模範教材が前田のスイングだった。

 ただ落合との関係は、古くから球界で言われる師弟のようなものではなかった。福留は落合に従(つ)いていくというつもりはなく、感情的なつながりを持っていたわけでもなかった。

 むしろその逆であった。

 福留の名が世に知れ渡ったのは、1995年のドラフト会議だった。名門PL学園の主砲として甲子園を沸かせたスラッガーは、当時の高校生史上最多となる7球団から1位指名を受けた。大争奪戦の末に交渉権を引き当てたのは近鉄だった。

 だが、福留は近鉄への入団を拒否すると、社会人の日本生命を経て、再びドラフト対象選手となる3年後のドラフトまで待って、逆指名で中日へ入団したのだ。

 遠まわりしてまで中日への思いを貫いたのには理由があった。当時の監督だった星野仙一やスカウトの存在も大きな要因だったが、胸の奥にもっと根源的な愛着があった。

 まだ小学生の頃、福留はよく宮崎へプロ野球のキャンプを見にいった。巨人の球場では選手に近づくことさえできなかったが、鹿児島県曽於郡の実家から、車で40分の串間市で行われていた中日キャンプは、どこかアットホームな雰囲気があった

 ある日、憧れの立浪和義に視線を送っていると、ボール拾いをしていた裏方の一人が声をかけてくれた。

「君、いつもよく見に来てるなあ」

 片方の足を引きずるようにして歩くそのスタッフは、福留少年に向かって微笑んだ。そして、人差し指を口に当てて、内緒だよというポーズをしながら硬式ボールをそっと渡してくれた。フェンス越しに受け取ったその白球は少年時代の宝物となり、中日という球団との絆になった。

 本土最南端、鹿児島県大隅半島の野球少年は、やがてPL学園へ進み、甲子園、オリンピックと大舞台を踏んで名を馳せていくが、あの日の記憶はずっと胸に刻まれていた。そして、ドラゴンズブルーのユニホームに袖を通して、あのスタッフと同じグラウンドに立った時、福留はひとつ思いを遂げたのだ。

 ところが前年、2005年のオフ、そのスタッフが解雇された。監督2年目、優勝を逃した落合は、再び選手やスタッフの血の入れ替えを断行した。そのメスは組織の末端にいる裏方スタッフにまで及んだのだ。この世界で戦う原点のような存在を失った福留は、その瞬間から落合という人間への熱も失った。

《この球団は、もう昔とは変わってしまったのかもしれない……》

 諦めにも似た寂しさが胸にあった。

「――どいけんじ」

 その一方で、バッターとしては落合の眼力と技術に惹きつけられた。ホームランを増やそうと悩んでいた福留に、落合はこう言った。

『ホームランは力で打つもんじゃない。技術で運ぶもんだ』

 落合はバットを手にすると、眼前にある高さ4、5メートルのネットに向かってボールを打った。赤道のわずか下をスパッと斬るように打ち抜かれた白球は、ほとんど真上にあがった。シュルシュルと音を立てながら、生き物のようにネットを越えると、向こう側にポトリと落ちた。

 福留も同じようにしてみたが、どうしても目の前のネットにボールが当たってしまう。落合のように、真上にあがるほどスピンの効いた打球はなかなか打てなかった。

 バッターとして未知の扉を開けてくれる。そういう意味において、落合以上の存在はいなかった。だから福留は、グラウンドでは感情を排した。打つという作業においてのみ、落合とつながることにした。

 チーム内には、レギュラーを剥奪された立浪の処遇を巡って、落合に対する感情や不穏な空気が渦巻いているのも知っていた。ただ、福留は直感的にわかっていた。落合は、好きだとか嫌いだとか、そうした物差しの埒外で生きている人間だ。感情を持ち込んでも意味がない。その割り切りが、技術追求への純度を高めた。

 優勝争い、自身の成績、落合の視線。日々、それらに内面を揺さぶられる選手たちの中で、福留が泰然としていられたのは、そのためだったのかもしれない。

 福留は、自身が求めるスイングだけを見ていた。

 これまで最も凄いと感じたバッターは誰なのか?

 数人の番記者といる中で、私は落合にそう訊いたことがあった。

「どいけんじ」と落合は短く答えた。

 話はそれきり続かなかった。川上哲治や王貞治といった名前を想像していた私は二の句が継げなかった。他の記者もそうだったのかもしれない。誰も「どいけんじ」について、それ以上、訊く者はいなかった。

 ただ、その事実だけは活字になり、紙面を通して世の中に伝わり、やがて故郷の富山で暮らしている土肥健二の耳にも入った。

落合が私淑した土肥健二(提供:時事通信社)

 三冠王・落合の神主打法を生んだ男――。土肥は、いつしかそう言われるようになっていた。

《なんで落合は、自分のことをそんな風に言うのだろうか……》

 土肥は不思議だった。ロッテで落合とともにプレーしたのはわずか5年間であり、その間にバッティングについて何かを問われたことも、語り合ったこともなかったからだ。

 1969年、土肥は富山の古豪・高岡商業からドラフト4位で捕手としてロッテに入団した。すぐにハンドリングの巧みな打撃を買われ、1軍のゲームに出られるようになった。ただ、170センチと小柄な体は長いプロのシーズンに耐えきれず、途中で悲鳴をあげた。そのためレギュラーを獲るには至らなかった。

 土肥は年齢を重ねるにつれ、時には外野も守りながら、代打の切り札として職人的に生きていくようになった。その追求の中で身につけたのが、両腕を体の正面に伸ばして構える神主打法であった。当時、球界には外角へ逃げていくスライダーを投げるピッチャーが増えていた。そのボールに対応するためにはバットの出を少し遅らせる必要があり、お祓いをする神主のような独特の構えは、そのためのものだった。

 社会人の東芝府中から、25歳のスラッガーが入ってきたのは、土肥がプロ11年目を迎えた年だった。

 3歳下の落合は変わった男だった。当時は監督もコーチもこぞって「上からボールを叩け」と口を揃える時代だった。新人選手はみなダウンスイングを強制されるのだが、落合はそれには耳を貸さず、アッパースイングの軌道を描いていた。

 下から放物線を描くように打ち上げた打球は遠くには飛ばない。土肥はそう教えられてきたが、落合の打球はなぜか空へ上がると、なかなか落ちてこず、ゆったりと川崎球場のフェンスを越えていった。一本、また一本とそのスピンの効いた放物線を描くうちにやがて誰も落合に「上から叩け」とは言わなくなった。

 3年目、落合が首位打者を獲った頃にはチーム内から、こんな声が聞かれるようになっていた。

「あいつは、一体、いつ練習しているんだ?」

 落合が特別に他人よりバットを振っているという姿を、誰も見たことがなかった。土肥がベンチで何気なく目にした落合の手の平は、血豆ひとつなくツルツルとしていた。ストイックな空気はなく、酒の匂いをさせながら打席に立つこともあった。

 だが、試合では誰よりも貪欲だった。大差をつけられても最後の打席まで飢餓感を失わず、1本でも多くのヒットを稼いで帰っていった。

 そして4年目、三冠王を獲った頃には、神主打法は、落合の代名詞のひとつになっていた。

 土肥には、落合が自分を真似たのだという意識はなかった。気づかなかったと言った方がいいかもしれない。落合とはゲーム中のベンチで言葉を交わし、酒を酌み交わしたこともあったが、バッティングや構えについて話した記憶はなかった。

 ただ、振り返ってみると、キャンプ中に2つ3つの打撃ケージを並べて練習する時、土肥は落合とペアになることが多かった。もし、落合が自分のバッティングから何かを得たのだとすれば、その時だ。落合は目の前でバットを振る“代打屋”の構えを、じっと見ていた。人知れずそれを再現して、やがて自分の身体にすり込んだのだ。

 土肥は15年目、497本のヒットと44本のホームランを残してユニホームを脱いだ。それから時が経つにつれて、落合という男の本質がわかってくるような気がした。

 落合という人間を表す代名詞に「オレ流」がある。この表現について、後に落合本人がこう語っていたのを目にしたことがあった。

『自分では一度も、オレ流という言葉を使ったことがない。周りが言っているだけ。世の中の人たちがいうオレ流って、自分に言わせれば、堂々たる模倣なんだと思う』

 土肥はそれを聞くにつれ、落合という男から感じた、あの日々の不思議を妙に思い出した。

 9月も半ばを過ぎると、阪神の足音はさらに大きくなった。背後に迫る影は行軍の足を鈍らせ、中日は次第に打線のつながりを欠くようになっていった。そんな中、淡々とヒットを重ねていたのが福留だった。

 その日、福留は横浜へと向かう新幹線の車中にいた。窓際の席で、しきりに手の平を気にしていた。血豆が幾重にも固まったその手は、乾燥してひび割れ、ゴツゴツとしていた。

 幾千幾万のスイングを積み上げてきた証。ささくれ立った皮を剥くのは、おそらく彼の癖なのだろう。隣の席にいた私は、それを眺めながら、福留に幾つかの質問を投げた。移動の時間を邪魔してまで取材したのは、このチームが優勝すれば特筆すべき男だと思ったからだ。

 首位打者を独走中の3割5分を超える打率、30本に迫るホームラン。数字も突出していたが、それと別に、福留には他の選手と明らかに違う点があった。落合との距離感である。

 日々、試合前のフリーバッティングを終えると、福留は落合の元へ向かった。落合も、福留が打つ時間になるとグラウンドに現れて、ケージ裏でそれを見守っていた。そして2人は、今しがたのバッティングについて、二言、三言、かわすのだ。

 わずか数分だが、あの落合と毎日のように接していた選手は、福留をおいて他には見当たらなかった。

 一方で、両者の間には明確な一線が見てとれた。接するのはバットを介してのみ。それ以外に感情のつながりが見られないのだ。

 誰もが落合の言葉や視線に感情を揺らし、あの立浪でさえ怒りを露わにする中で、福留からはまるでそれが感じられなかった。

 交わることのない2つの個。落合と福留の関係はそのように見えた。

「好きとか嫌いを持ち込んだら、損するだけだよ」

 車窓から差し込んでくる光に目を細めながら、福留は言った。

「前にも言ったことがあっただろう? 俺は野球と人間的なものは区別することに決めたんだよ」

 落合との距離感について私が問うと、福留はそう答えた。

「でも、監督はキャンプから他の誰よりも俺のバッティングを見てきた人だから。どこが違うのか、何が狂っているのか一番わかるんだ。だから訊く。今日はどうですか?って」

「野球できなくしてやる」

 私は福留と同じ年の生まれだった。ただ、一度もそれを実感したことはなく、いつも自分より遥かに年輪を重ねた人間のように感じていた。それは、これまでに捨ててきたものの差かもしれないと、私は思った。

 福留は鹿児島県から初めてPL学園へ越境入学した選手だった。

 当時、県内強豪校の関係者からは、『もし鹿児島を出て、他県の高校へ行くなら、お前の弟が県内で野球できんようにしてやる』と脅迫めいた言葉も投げられたという。そんな中、15歳の少年はひとり決断し、故郷を飛び去った。今、立っている場所、与えられたもの、それらに拘泥することなく、むしろ捨て去ることで前に進んできた。

『一流のものは、シンプルだ』

 落合からそう言われた福留は余分なものを削ぎ落としたスイングを求めていた。そのために落合を“鏡”にしているのだ。日々、自分のバッティングに起こる変化について正確に映し出してくれる2つの眼。そこに情はいらない。あれば鏡は曇るだけだ。

 不思議だった。落合と福留はバッターとしても、人間としてもまるで違う。ただそれなのに、どこか深いところで重なる部分があった。

 2人が放つ、揺るぎなく、ドライな空気は、このチームを象徴しているようでもあった。

 やがて新幹線は新横浜駅のホームへ滑り込んだ。福留は脱いでいたジャケットを羽織ると、「じゃあ、また球場で」と席を立った。

 すベてが決する残り20試合。戦いの佳境へと向かう男の背中が、ホームの雑踏の中へ消えていった。

 その翌々日、横浜スタジアムでの3連戦、最後の夜は劇的な幕切れだった。3点を追う最終回、中日は代打・立浪の一打を皮切りに一挙5点を奪い、逆転勝ちした。迫る足音をわずかに遠ざけ、半歩進んだ。その裏で事件は静かに起こっていた。

 ゲームの後、落合はなかなか姿を現さなかった。選手やコーチを乗せたチームバスが球場を去った後も、まだ出てこなかった。

 スタジアム3塁側、中日のロッカーへと通じる扉の前には落合を待つ報道陣が列をつくっていた。そこへ硬い表情をした球団幹部が出てきて、口を開いた。

『落合監督の私物のバッグが紛失しました。バッグには財布の他に落合監督が大切にしている御守りが入っていたということです。盗難の可能性もある……と判断して、警察に届けるつもりです』

「盗難」「御守り」という言葉が、報道陣をざわめかせた。

 落合がベンチ裏から出てきたのは午後11時に差し掛かった頃だった。

「5回まではあったんだ。あそこ(監督室)に入れる人間は限られているはずなんだけどな……」

 落合はバッグのことを問われると歩みを止めずに、そう言った。

「バッグも財布もいいんだ。あれさえ戻ってきてくれれば……」

 いつも一点を見つめ、確信めいた落合の視線が宙を泳いでいた。そんな落合を見るのは、初めてだった。

(文中敬称略/つづく)

 

source : 週刊文春 2020年10月1日号

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