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千鳥が受けた狂気のレッスン

「笑い神 M-1、その純情と狂気」第3回——「どなたさん?」。ボケ続ける哲夫への返しがノブを漫才師に変えた。

中村 計
エンタメ 芸能 テレビ・ラジオ 娯楽

 千鳥の大悟は、神妙な面持ちで語った。

「笑い飯に今の仕事を見られて、『おもしろうないな、大悟。なんであんなことすんの』って言われたら、僕、愕然とすると思うんですよ」

――落ち込みますか。

「うん。誰に言われるより」

 レギュラー番組10本を持つ千鳥は、吉本興業切っての売れっ子コンビだ。今や、ダウンタウンの後継者とさえ言われている。その千鳥にとって、笑い飯は、この世界における「親」であり、「兄弟」だった。そして、ときに「教祖」でもあった。
 

 

 大悟と笑い飯の出会いは、1998年まで遡る。岡山県内の商業高校を卒業した大悟は、芸人を志し、大阪のNSC(吉本の芸人養成所)を受験したものの不合格。高校の先輩の紹介で、大阪・難波を拠点にするインディーズライブの団体に流れ着く。インディーズとは、個人運営に近い小規模団体のことである。事務所に所属していない芸人、あるいは事務所に所属しているが出番が少ない芸人らが集まる場所。言ってみれば、業界の「底」だ。

 そのグループには、20組前後の芸人たちが出入りしていた。そこに笑い飯を結成する以前の哲夫と、西田幸治がいた。哲夫は「スキップ」、西田は「たちくらみ」というコンビをそれぞれ別の人と組んでいた。大悟が思い出す。

「西田さんは今より髪が長くて、なぜか私服もスーツで、黄色い丸眼鏡をかけていた。哲夫さんも、なんか……とにかく変。ダサいんですよ。2人とも年が5つくらい上だったんで、ああいう大人にはならんとこうと思ったのが最初の印象っすね」

 スキップとたちくらみは仲がよく、そして、怪しかった。大悟は最初、そんな2組と努めて距離を置いていた。

「僕を紹介してくれた先輩のグループと、スキップ・たちくらみは仲がよくなかったんです。こっちは、ポップ目の笑いで売れようとしていた。スキップとたちくらみは、そんな僕らを小馬鹿にしているようなところがあって。だから、最初の半年くらいは遠くから見ていただけ。すっごい変な人たちだな、って」

 M-1創設以前、90年代後半の大阪の芸人界隈は、ある種の「アイドルブーム」だった。ターゲットは、流行に敏感な若い女子たち。イケメンで、お洒落で、さらには歌って踊れる芸人たちのライトな笑いが求められていた。

 スキップも、たちくらみも、それとは正反対の道を突き進んでいた。強面で、ダサく、「しゃべくり」一本で客に挑む。ポップ路線の芸人たちとは、まさに水と油だった。

 哲夫は当時、関西学院大のサッカーサークルの1年後輩だった丸尾将之とコンビを組み、半年ほど経過していた。留年が決まっていた丸尾は卒業したら一般企業に就職するつもりでいた。そのため、1年間という期限付きで哲夫のツッコミ役を引き受けていた。

 一方、西田の相方は、守一郎という珍しい名の2歳上の元DJだった。コンビ歴はすでに2年を超えていた。スキンヘッドで髭を生やし、さらに恰幅がよかったため、見た目はプロレスラーのような威圧感があった。哲夫の元相方の丸尾の証言だ。

「たちくらみは、当時から、かなり完成されていました。ただ、守一郎さんは見かけの割に、めちゃくちゃ気が小さかった。西田さんと話しているときも、呑まれまくっていましたから。その団体の中では、西田さんと哲夫さんは別格の存在だったと思います。他の人たちは、かるーい感じでしたから。若い女の子にキャーキャー言われたい、みたいな。ファンの女の子にこんな差し入れをもらったとか言って喜んでいるような人たちで。でも、2人は端からそんなところは見ていなかった」

 大悟と哲夫が急接近したのは、たわいもない出来事がきっかけだった。ライブの打ち合わせで、哲夫と大悟が初めて1対1で顔を合わせたときのこと。哲夫は唐突に、自分のオナラを手で包み、大悟の顔の前でパッと開いた。いわゆる「握りっ屁」だ。

 大悟は顔をしかめ、吐き捨てた。

「何しょんねん、今の時代に」

 哲夫はその返しにいたく感心した。

「ツッコミ、うま、って。普通のやつなら『何しょんねん、臭いの』で終わりですよ。でも『今の時代に』って言ってきた。まだ、そんなおもしろくないことやっとんのか、と。しょうもないんだけど、でも、あえてそれをやることのおもしろさってあるやないですか。大悟は一瞬にして、それを見抜いたんですよ」

 その日を境に、哲夫と大悟の距離は一気に縮まった。そこから大悟が「哲夫・西田」色に染まるのに時間はかからなかった。もともと「人間」が近かったのだ。哲夫が楽しげに思い出す。

「大悟もその頃、ポップなネタをせなあかんのかな、って悩んでいて。もっと、やりたいことやっていいと思うで、っていう話をしたんです。そうしたら『メルコン』っていう変なネタをやり始めた。その頃、あいつはピン(1人)でやってたんですけど、ホワイトボードに雑誌から切り抜いてきた怪人みたいなのを張りつけて、その説明をするんです。急速にウケなくなりましたけど、僕らは腹を抱えて笑ってましたね」

 大悟は、滑っても気にしなかった。哲夫と西田が舞台袖で笑ってくれてさえいれば、それだけで安心できたし、心は満たされた。

「キモ、このおじさんたち」

 その頃、ピン芸人だった大悟だが「意中の人」がいた。それが今の相方で、高校時代の親友のノブだ。大悟に口説かれたノブは、大手電機メーカーの工場勤務を辞し、1年遅れで大阪にやってきた。

 笑いの本場、大阪で売れっ子芸人になる――。田舎育ちのノブにとって、その未来像はじつに甘美だった。ところが、大悟の「職場」を訪れ、膨らんでいた期待は一瞬にして萎んだ。

「僕は大悟も吉本に入るんだろうなと思っていたんです。僕も吉本が好きで、それで大阪に来たので。そうしたら、最初に行ったライブが、インディーズで。ああ、俺らの主戦場は、こんなにちっちゃいんだ、と。一からというより、ゼロからの出発なんだなと思いましたね」

 吉本が所有する日本最大の寄席小屋、NGK(なんばグランド花月)の向かいにドン・キホーテが入った8階建ての複合ビルがある。吉本出身の横山ノックが大阪府知事だった時代、1996年に竣工し、同ビルの4階から7階に「ワッハ上方」という愛称の上方演芸文化の保存と発展を目的とした施設をつくった。そこは300人収容のホール、資料展示室、そしてレッスンルームと呼ばれるフリースペース等を備えていた。
 

ワッハ上方が入るビル(右)。向かいはなんばグランド花月

 そのレッスンルームが、インディーズライブの「主戦場」だった。50、60人も客が入ればいっぱいになるコンパクトで、廉価なレンタル空間だった。ちなみに笑い飯や千鳥の原点であるワッハ上方は、橋下徹が知事になると、経営体制が見直され大幅に縮小された。現在は府が運営する資料館のみが残され、ホールは「よしもと漫才劇場」としてリニューアルし吉本の若手芸人のホームグラウンドになっている。

 出演するライブの規模にショックを受けたノブは、直後、さらなる衝撃を食らうことになる。大悟に「この人たちだけはおもろいから、この人たちとだけ仲ようしとけ」と紹介されたのが哲夫と西田だった。

「めちゃくちゃ怖かったですね。変な人過ぎて。西田さんはジョン・レノンみたいやし、哲夫さんは軍服みたいな、くるぶしまであるようなコートを着ていて。僕はダウンタウンの浜田(雅功)さんみたいな、おしゃれな先輩をイメージしていたので、全然ちゃうやん、と。キモ、このおじさんたち、というのが第一印象でした。いくら『おもろいから』って言われても、見た目のインパクトが強過ぎて、キモいおじさんというのが勝ってました。いや、ほんと、すごかったっすねえ……」

 大悟はこう反省する。

「僕は2人に洗脳されている最中で、少なくとも、1年くらい見てましたから。でも、大阪に出てきたばっかりで、『この人たちおもろいから』って急に言われても、そら、ついていけませんわね。思えば、僕も最初、そうでしたから」

 その日の夜、ノブは「キモいおじさん」たちからさっそく洗礼を浴びる。ライブのエンディングで、大悟とノブはこれから千鳥というコンビで再スタートを切ると紹介された。瞬間、あいさつ代わりに何か言わなければならないと思ったノブの目に、司会の哲夫が着ていた何の変哲もないTシャツが映った。

「何やねん、そのVネックは!」

 脈絡のないノブの絶叫に会場が一瞬、静まり返った。他の出演者もぽかんとするしかなかった。ボケもツッコミも、つまりは誰かへのパスでありシュートだ。ノブの行為は突然、誰もいない場外に思い切りボールを蹴り出す行為に等しかった。

 ライブ後、近くのたこ焼き屋で打ち上げをし、そのまま西田の相方、守一郎の家へ流れた。その家は大阪湾沿いにあった。明け方、泥酔したノブは、涙を流しながら、海に向かって嘔吐を繰り返していた。

「みんなに朝まで『大悟の相方は、おもろないねー』ってずっと言われ続けてたんです。なんじゃ、この世界は、って。1回滑っただけで、ずっとおもんないって言われるんかい、って。怖い世界に来ちゃったなと思いましたね」

 スキップとたちくらみが中心となって開催されていたライブは、その名を「魚群」といった。魚群はノブにとって、さながら戦地だった。1つのミスが致命傷になる。しかし、そんな危険地帯にも、一条の光が差し込んでいた。

「哲夫さんと西田さんが言ってること、やってることは、ずっと、めちゃくちゃおもしろかったんです。すげえ、すげえ、って」

 ノブにとっての、芸人としての1コマ目。幸か不幸か、そこで多くのことが決定づけられてしまった。

「笑い飯の2人は、僕の中では、いちばん最初に会った大悟以外の芸人なんです。漫画とかだと、こっからどんどん濃いキャラクターが出てくるじゃないですか。でも、結局、この2人がいちばん狂ってたんですよ。今でも。だから、何がおもしろいかみたいな感覚も、いきなりぐんにゃって曲げられてしまったんです」

 哲夫、西田、大悟という「いつもの3人組」は以降、「いつもの4人組」になった。

 哲夫は、たとえるなら「ボケマシーン」だった。隙あらば、ボケてくる。西田は哲夫ほどではなかったが、ときに張り合うように参戦してくる。ノブが加わる前まで、そのターゲットは大悟だった。だが、メンバーが4人に増え、ツッコミは当然のように「新米」の役割となった。

「最初の1カ月くらいは、3人がふざけているのを外から見ているだけだったんです。でも、電車に乗ってるときだったかな、哲夫さんに『どなたさんですか?』って聞かれて。夕方5時ごろだったと思うんですけど、そっから夜中まで、ずっと同じボケを繰り返されたんですよ」

 ノブは最初、必死でおもしろいことを言おうとしていた。声音も変えてみた。だが、やればやるほど空回りし、どう返しても哲夫は何も聞こえなかったかのように表情一つ変えなかった。大悟の家へ行ってからも状況は変わらなかった。

 深夜3時ごろだった。何十回目かの「どなたさんですか?」にノブがブチ切れた。目を剥いて、吠えた。

「ノブじゃ!」

 すると、哲夫が腹を抱えて笑った。西田も、大悟も、笑い転げていた。

「それでええねん。それがツッコミや」

 哲夫はそう言って、なおも笑っていた。

 ノブが「漫才師」になった瞬間だった。

「テクニックや小手先で言ってるときはひとつも笑ってくれなかった2人が、やっと笑ってくれて。いてこまされて、いてこまされて、怒ると笑いが起きる。笑いの教科書の1ページ目を教えてもらったような気がしましたね」

 4人は毎日のようにつるんでいた。そして、最後に流れ着くのは決まって劇場がある難波からもっとも近い六畳一間の大悟のアパートだった。哲夫と西田は実家がある奈良から通っていて、ノブはノブで大阪市内に下宿していたものの交通の便が悪く、3人は大悟の家に泊まることが多かった。

 それは半ば同棲生活に近かった。ただし、あまりにも窮屈だったため、程なくして、ノブと哲夫は大悟の近所に部屋を借りた。そんな日々は、「毎日がお笑い合宿」だったという。ノブが思い出す。

「バラエティ番組をみんなで見て、ケラケラ笑ってる時間なんてゼロ。最初の1、2年なんて、ずっと2人にボケられてましたから」

 その状況は、話から想像する以上に過酷だったようだ。かつて芸人で、笑い飯や千鳥とともに舞台に立った経験を持つ水上雄一は、自ら希望して、その正気とは思えないトレーニングを受けたことがある。

「ノブさんと同じような体験をさせてください、って。ほんま、ずっとボケてるんです。ツッコミがおもしろくなかったら、ずっと無視。罵倒され続ける方がはるかに楽ですよ。無視は、ほんまきつい。心をえぐられます。6時間ぐらい経って、もう勘弁して下さい、って言いました。僕やったら、こんなことを1年も2年もやってたら、気ぃ狂っていたと思いますよ」

「僕の方が、うまくできますよ」

 彼らの狂気のレッスンは突然、始まることがあった。ライブが終わり、新入りがよく餌食になった。「〇〇、どこにおるんや?」。それが開始の合図だった。そう言われたら、何かするしかない。水上が言う。

「みんなの前で素っ裸になるとか、牛丼屋で牛丼かぶって出てくるとか。それでやっと『あ、おった』と。そんな日々がずっと続くんですよ」

 ノブのツッコミは、今や、ダウンタウンの松本人志が認めるほどの腕前だ。大悟はしみじみとこう語る。

「僕もそうですけど、ノブのツッコミは特に、笑い飯の2人がいなかったらここまでにはなっていなかったでしょうね」

 笑い飯と出会わなかったら、今の千鳥は存在していなかったかもしれない。だが、逆も然りだ。千鳥との邂逅がなかったら、今の笑い飯もいなかったかもしれない。

 ノブがやってきて、大悟は水を得た魚のように生き生きとし始めた。千鳥が勢いづくと、哲夫と西田は、さらにペースを上げた。すると、その4人について行けなくなる者が現れた。そう、哲夫と西田のそれぞれの相方である。

 哲夫は丸尾が就職した後、高校時代のサッカー部の後輩と新たに組み直したが、その相方がまず去った。そして、守一郎も、大きく後退し始める。西田の回想だ。

「彼は仕切り役だったので、おれらと千鳥が、舞台でブワーッとかけ合いみたいになると、ツッコまなければならない。けど、なんか、それがどんどん弱々しくなっていったんですよね。ハリセンでしばくところも、頭の上に置くぐらいになって。そうなると、おれらも『あそこ、違うで』ってなるやないですか。そうしたら、あるとき、『もう、ついて行かれへん』ってこぼし始めて」

 守一郎の失速ぶりは、誰の目にも明らかだった。ある日、そんな守一郎をみんなで軽くからかってやろうという空気になった。そして、他の3人にけしかけられたノブが守一郎に電話をし、「僕の方が仕切り、うまくできますよ」と芝居を打った。すると、その数日後、守一郎は芸人を辞めてしまった。

 おそらく、時間の問題だった。大悟が振り返る。

「守一郎さん、哲夫さんと西田さんに、すごいコンプレックスを抱いていたんです。それは、見てればわかります。かなわん、と」

 守一郎は哲夫と西田がいない日を見計らって、大悟の家へやってくることがあった。

「パンツ一丁で、ピンポンって来たり。そうやって、2人がいないところで大ボケをかまして、帰っていくんですよ。それを一度、2人に話したら『おれらの知らんとこで』って、おもしろくなさそうな顔をしたんです。だから、それからは黙っていましたけど。そうやって、僕をはけ口にしてたんやろうな。そら、しんどいですよ。あのレベルの人の相方を務めるのは」

 スキップ、たちくらみは相次いで解散した。それからしばらく哲夫と西田はピン芸人として活動していた。

 そんなある日のこと――。難波から大悟の家まで、大悟と哲夫と西田は自転車で3人乗りをしていた。大悟が尻を宙に浮かせてペダルを漕ぎ、哲夫はサドルに座り、西田は荷台に腰掛けていた。

 ちょうどファミリーマートを通り過ぎようとしたときだった。突然、哲夫から大悟に「重大発表」があった。

 (文中敬称略、以下次号)

source : 週刊文春 2021年11月18日号

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