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おぎやはぎの勃興、笑い飯の焦り

「笑い神 M-1、その純情と狂気」第4回——新宿のライブで観た斬新な漫才。その衝撃が哲夫の心をはやらせた。

中村 計
エンタメ 芸能 テレビ・ラジオ

哲夫の記憶では、1999年暮れのことだ。すでに25歳になっていた。

〈戻ってすぐ西田と組む〉

 メモ帳に、そう書き記した。

「西田(幸治)君と組むのは最終手段やったんですよ。ボケ同士やし、言うたら、ライバルやと思っていたんで」

 いずれ衝突する――。それも覚悟の上の決断だった。

 哲夫を「最終手段」に走らせたもの。それは、当時、まだ無名だった東京のあるコンビだった。

 なかなか相方が定着しない哲夫は、4人目のパートナーとも一度舞台に立っただけで別れてしまった。そろそろ本腰を入れて相方を探さなければならないと思い立ち、哲夫は思い切って東京まで足を運んだ。以前、ライブで一緒になった芸人で、ツッコミが抜群にうまい人がいた。その芸人が東京で活動しているという噂を聞きつけたからだ。

 そんなある日、情報収集も兼ねて、「新宿Fu-」を訪れた。都内では有名なお笑いのライブホールだ。ところが、当てが外れた。その日は、プロダクション人力舎の定期ライブ「バカ爆走!」が行われていた。「コントの人力舎」と称されるように、人力舎は東京03などコントを得意にする芸人が多かった。

 哲夫は早めに席を立つつもりで何の気なしに眺めていた。そして――。

「6組目くらいに出てきたのんが、おぎやはぎさんだったんです。漫才だったんで、それだけでも目を引いた。自分が芸人になって、初めて人のネタであんなにわろうたんですよ。おもろうて、おもろうて」

 おぎやはぎのネタは「護身術」がテーマだった。ボケの小木博明が、ツッコミの矢作兼に対し、人気プロレス漫画の中の必殺技をかけるシーンが出てくる。そのとき、矢作が不服そうにつぶやく。

「これって、おれの協力がなかったら、成立しないんだよな……」

 確かに、かけられている方はその気になれば容易に逃げられる、漫画でしか成立し得ない技に見えた。関西で生まれ育った哲夫にとって、矢作のスタイルはツッコミのあり方を180度反転させた。読者の多くが感じただろう違和感を的確に言語化したセンスもさることながら、それ以上に、その声のリズムとトーンに目を見開かされた。

おぎやはぎ(写真は2006年/産経新聞)

「当時は、ツッコミと言えば、まだ『なんでやねん』の時代でしたから。間髪入れずにね。矢作さんみたいに、たっぷり間をとって、穏やかーに、声を張らずにツッコまはる人なんて、いてなかった。今やったら『説明ツッコミ』いうて、同じようなツッコミしはる人がたくさんいますけど。僕がまだ、自分がいっちゃんおもろいとかって、偉そうに言うてた時期。せやのに、自分よりおもろい漫才師を見つけてもうたんですよ」

 東京の笑いに対しては、保守的なイメージしか抱いていなかった。また、「漫才=関西弁」という固定観念もあった。そんな自分がよもや関東の漫才にこれだけ笑わされるとは思っていなかった。

 おぎやはぎは結成5年目、自分より3つ年上のコンビだった。哲夫は、焦燥感に駆られた。

「おぎやはぎさんが出てきたら、漫才界、すごいことになるなと思った。悠長に相方探ししとったら、手遅れになるんちゃうか、と。だから、今すぐ、いちばん近くにおる、おもろいと思ってる西田君と組もう、と。笑いのセンスという意味では、誰よりも信頼していたんで」

 2人が出会ったのは、その2年ほど前だった。「ファシズム」というインディーズライブの打ち合わせの席でのこと。西田は哲夫のこんな「ボケ」を覚えている。

「当時、僕が組んでた相方が『たばこ買ってくるわ』って言ったんです。そのちょっと前に、哲夫がたばこの空き箱をくしゃくしゃにしてたんで、『一緒に買うてきてもらったら?』と。そしたら『いや、そんなん悪いです。いいです、いいです』って言いながら、お財布の中の小銭、全部出して『こっから持っていってください』って。なんやこいつ、って。おもろいなと思いましたね」

 哲夫の方も些細なことがきっかけで西田に興味を惹かれた。何度目かの打ち合わせのときだった。

「缶コーヒーの空き缶を灰皿にしよったんですけど、飲み口のところに少しコーヒーが残っていて、そこに灰を落としたとき、『しゅわっ』ていうたんですね。で、西田君が『今、しゅわっていうたな』みたいに言うてきたから『いや、それ言わんでええねん』って、めちゃめちゃ笑うて。僕もそれ、いちばん好きなボケなんですよ。言わんでええことを、いちいち言うてくるやつ」

 あるライブのとき、舞台裏の廊下の向こうから哲夫が歩いてきた。そして、すれ違いざま、誰に言うともなく「おしっこ、してこよお」とつぶやいた。本当だったんだ、そう思った。千鳥の大悟の証言だ。

「哲夫さん、昔から、ずっと言うてたんですよ。子どもが言わんでもええのに『おしっこしーよお』って言うの、おもろいな、って。それを50になっても言うてたいなあ、って。ノブも、今でも、わしの横で『おしっこしてこよお』って言うんで」

 根が素直なノブは、誰よりも濃く「笑い飯色」に染まっていた。

「今の吉本はおもろない」

 成功した漫才コンビを見ていると、いつも感じることがある。

 奇跡の出会い――。

 そうとしか表現できない星の巡りである。同時代に、同じ場所で、よくぞこの2人が偶然、同じ道を歩いていたものだと思う。

 哲夫と西田も、そうだった。同学年で、ともに奈良県出身で地元から大阪に通っていた。その上、心がくすぐられるポイントまで一致していた。それも、相当、ピンポイントだったにもかかわらず、だ。それだけではない。ともに思春期に、エロ小説の執筆に没頭していた時期がある。哲夫も西田も、そんな人に会ったのは初めてだと言うが、その一つを取っても神の差配と言いたくなる符合である。

 まだある。その頃の大阪の、吉本の笑いを2人は嫌悪していた。当時、吉本に所属する若手芸人は「baseよしもと」という劇場を主戦場にしていた。baseよしもとは、笑い飯や千鳥がインディーズライブ「魚群」を開催していたワッハ上方が入ったビルの地下にあった。同劇場は「プレステージ」という誰でも参加できるオーディションを行っていて、そこからいくつかの戦いを勝ち抜くと、劇場のレギュラーメンバーに定着できるという仕組みになっていた。

「魚群」に出演していた多くの芸人にとって、魚群とはあくまで舞台経験を積むための場であり、プレステージこそが真の戦いの場だった。ところが笑い飯は、頑なにプレステージに参戦することを拒んでいた。

 当時の芸人仲間の内の一人、水上雄一が哲夫の口癖を思い出す。

「哲夫さんは『今の吉本はおもろない。インディーズから天下を獲るんや』って言うてましたね。本気で吉本からスカウトが来ると思ってたみたいですから」

 西田も哲夫と同じ考えだった。

「その頃のベース(baseよしもと)は、若い女の子がキャーキャー言ってるようなイメージやった。だから、あんなとこ行っても合わんし、だったら、こっちで行けるところまで行ったらええと思ってましたね」

 共通の敵を持つことほど結束を深める要素はない。哲夫と西田が意気投合しないはずがなかった。

 奈良市内の西田の実家の近くに「人情屋台朝まで元気村」という居酒屋があった。普通は「人情屋台」など略して呼んだが、2人はあえて「人情屋台朝まで元気村」とフルネームで発音し、そのたびに笑い合った。ライブの後は、必ずと言っていいほど、そこに立ち寄った。そして、自分たちが認められない不満を、怒りをぶつけ合った。

 哲夫が西田にコンビ結成を持ちかけたのも、その居酒屋だった。

「『試しに1回、やってみいひん?』って。僕ん中ではすごいあれがあったんですけど、徐々にという感じで」

 一方の西田は、そのときの胸の内をこう明かす。

「まあ、(相方が)おれへんしなあ、みたいな。正直、遊びでやってみて、嫌になったらやめたらええわぐらいな感じでしたね。誘われへんかったら、絶対、組んでなかったんで」

 ずいぶんと素っ気ない。だが、その後の2人の関係性が、そう言わせてもいるのだろう。2004年秋に『クイック・ジャパン』のインタビューを受けた際、西田はそのときのことをもっと熱っぽく語っていた。

〈僕はずっと、こいつと絶対コンビを組むやろうなという気持ちはありました。まぁ、ふだんからボケあったりしてましたから、本当に自然の流れでしたね〉

 同志である千鳥の大悟は、哲夫と、西田と自転車で3人乗りをしているとき、哲夫の口から背中越しにそのニュースを伝えられた。最初に過(よぎ)ったのは「脅威」だった。

「ファミリーマートの前を通ってるとき、言われたんですよ。僕が立ちこぎしていて、哲夫さんがサドルに座ってて。照れ臭くて、走ってる最中にゆうたんかな。『にっしゃん(西田)と組むことにしたわ!』って。『そんなんされたら勝たれへんから嫌やわあ』て返した気がするんですよね。ライバルとして。両方、おもしろいと思ってたんで」

 2人は年明けの「魚群」でひとまず組んでみることにした。コンビ名はまだ「スキップ・たちくらみ」という連名表記だった。「魚群」の主要メンバーだったヘッドライトの町田星児は、2人のデビューをおぼろげながらも記憶していた。

「……確か、ホワイトボードに双六みたいのを書いていて、それぞれのマス目に大喜利のテーマが書いてあったんですよ。大きなサイコロを振って、おもしろいことを言い合いつつ、どっちが先にゴールするかを競うみたいなネタやったと思います」

 漫才ともコントとも表現しがたいネタだったが、のちの「ダブルボケ」と呼ばれるスタイルの萌芽はすでにこのときに現れていた。

 その半年後、哲夫は、もう一つ大きな決断を下した。baseよしもとのオーディション「プレステージ」の舞台に立つことにしたのだ。

 今も笑い飯や千鳥と交流がある芸人の梶剛は、あるとき哲夫にこう切り出された。

「飲み会の席だったと思うんですけど、『プレステージのエントリー、どうやんの?』って聞いてくるから、こっちもびっくりして『何でですか?』って。そうしたら、今でもはっきり覚えてるんですけど、『俺らが出て、変えるわ』って。最初、何言ってるのか、さっぱり意味がわからなかった。けど、無理っしょ、とも思わなかったですね」

 のちに笑い飯は、本当にbaseよしもとの客層も芸人も一変させてしまうことになるのだが、それはまだ少し先の話である。

 その頃の笑い飯は自信に満ち溢れていた。そして、とことん挑発的だった。だが、こんな内情も見え隠れしていた。梶が続ける。

「笑い飯も、千鳥も、僕ら芸人が見たら、衝撃的なおもしろさだった。でも、まだ客には受け入れられてはいなかった。そんなにウケてもいなかったと思います。僕は千鳥の方に憧れていたんですよね。どちらかといえば、千鳥のネタの方がポップだったんで。いや、ぜんぜんポップじゃないんですけど、笑い飯に比べたら、まだ、わかりやすかったと思います」

 当時の大阪の芸人は9割方、NSC(吉本の芸人養成所)出身だった。梶もそうだが、笑いの「イロハ」を学んだ者ほどNSCを経由していない2組のネタに度肝を抜かれた。前出の水上は、南海キャンディーズの山里亮太の元相方でもある。そのコンビは在学中から評価が高く、エリートと言っていい存在だった。水上も千鳥のネタを初めて見たときカルチャーショックを受けた。

「どんな人気漫才師も『はい、どーもー』と言って登場する時代でしたから。NSCの生徒も当然、それを見習っていました。そこへ行くと、千鳥は、のっけからぶっ飛んでいました。出てくるなり、大悟さんの『キスさせてくれや』みたいのから始まる。で、『目ぇ、つぶっとけ』と言って、ノブさんの後ろに回って、服の上から体をまさぐり始めるんです。えっ? って。僕らの感覚では、もうネタじゃない」

 笑い飯も千鳥も「魚群」ほどおもしろいことをやっているライブはないという自負があった。しかし、客入りは決してよくはなかった。梶はもっともだという顔で振り返る。

「もう、本当にチケットが売れなかった。汚いですから。みんなして。笑い飯と千鳥がその空気を作っていたんですけど、格好を気にするヤツはおもんないみたいな雰囲気があった。いつも天王寺の陸橋でチケットを売っていたんです。近くにJRと近鉄の駅があって、その間に高架あるんですけど、そこを高校生がよく通るんで。でも女の子なんて、怖がって、避けていく感じでしたから。そらそうですよ。西田さんなんて、マフィアみたいでしたからね」

「魚群」は興行として成立しているとは言い難かった。頭打ち。それも正直なところだったのだろう。西田はこう自分を納得させた。

「魚群メンバーがプレステージでもちょいちょい合格してて、そうすると、向こうの客がこっちにも来てくれたりしてたんです。ほな、ちゃちゃっと合格して、客を引っ張ってこようと。そんなノリでしたね」

「一発で受かったる」

 理由がどうであれ、「ボス」の変節にいちばん安堵していたのは千鳥だった。笑い飯に倣いプレステージ参戦を自粛していた大悟が振り返る。

「哲夫さん、ようようそこを曲げてくれたかみたいな感じでしたね。僕らは吉本が好きで大阪に来たのに、わけのわからんおじさんたちに巻き込まれて、変なところで漫才してるなー、ていうのは、どっかにあったんで。確かに、女の子にキャーキャー言われて喜んどる芸人をバカにしてましたけど『そうは言うても吉本に入らんと』みたいなんはあったから。わしらは、ほんま、ホッとしてましたね」

 

 プレステージにエントリーするためには、事前に「早い者勝ち」の入場券を1人2枚ずつ購入する必要があった。1枚500円で、それがエントリー費代わりだった。手にした入場券は各々、周りの人たちに売り捌く。チケット配布日は毎回、200人近い芸人が列をつくった。チケットを入手するためには早朝から劇場前に並ばなければならず、早起きする自信がなかった4人は朝5時まで居酒屋で飲み、そのままの流れで劇場前に陣取った。午前10時の受付時間まで余裕があったため、4人は地べたに座り、コンビニで酒を買ってきて酒盛りを始めた。西田が振り返る。

「まだ前に2人しかおらんかったので、広々座って、イカかなんか食いながら、キャッキャキャッキャ言って飲んでたんです。気づいたら、後ろに何十人も並んでて。こんなに並ぶんかいって眺めつつ。今でも言うたら怒られますけど、そんとき、NGK(なんばグランド花月)に立ちションベンかけてましたから。ははははは」

 野球選手で言えば、甲子園球場に小便をかけるようなものだろう。神をも恐れぬ所業である。他の芸人たちは、そんな4人に眉を顰(ひそ)めていた。南海キャンディーズの山里亮太も、そのうちの一人だった。

「普通の大人だったら、行儀よく並んでいることもオーディションのうちの一つだと考えると思うんですよ。でも、あの人たちは、普通に酒盛りしてましたから。インディーズの人たちって、こういう人いるよねみたいな見られ方をしてましたね」

 ただ、彼らは彼らなりに真剣でもあった。大悟が言う。

「はよ行かなって、まだ、真っ暗なうちから並んでましたから。そこは大真面目やったんです。でも、危ないヤツに見えたんでしょうね。気づいたら、僕らも、最初に自分たちが哲夫さんや西田さんを見たときに感じたような空気を発していた。あの人たち変過ぎて怖い、って」

 哲夫はその頃、周囲に「自分は日本一おもろい」と言って憚らなかった。

「今でもそうですけどね、僕は。そういう心構えでいるべきやとも思いますし。僕らが芸人になったころ、周りは、ダウンタウンの松本(人志)さんが一番やって言うとった。でも僕は松本さんより俺の方がおもしろいで、って言ってましたから。大悟も最初、そんなん言う人おんねんやって、びっくりしてましたね」

 おそらく、この世代で、そんな大それたことを公言する芸人は他に誰もいなかった。

 プレステージを受ける際、哲夫がこう豪語したのも当然だった。

「楽勝やで。一発で受かったる」

 ところが、そのはじめの一歩で、「日本一おもろい男」は、信じがたいような敗北を喫することになるのだった。

(文中敬称略、つづく)

source : 週刊文春 2021年11月25日号

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