人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた。
いわゆる不倫旅行、その最終日の出来事であった。
夜更から降り出した雨で、旅館のガラス窓から望む山間はどんより霧が立ち込めていた。
並べて敷かれた布団には情交の痕跡。その脇に座って女は暗い表情で帰り支度をしている。
「ねぇ、少しこの辺りを散策してから帰らない? 友達にお土産も買いたいし」
その言葉に男は「いいよ」とだけ返した。
家には出張と偽り出掛けてきた。彼女と東京駅で落ち合い、わざわざレンタカーまで借り関西方面に向ったのも全て、人目を避けるためである。
雨がさらに強くなればいい。だったら彼女も散策を断念するだろうと思っていたのだが、精算を済ませ外に出ると、驚いたことにピーカン。
それに前の道が何やら騒がしい。慌てて引き返そうとしたが、
「ひょっとしてブラタモリのロケじゃないかしら?」
と、女が嬉しそうに言い見に行ったもので、男は旅館前の柱に身を隠すことにした。
確かにロケには違いないが、カメラの前に立つサングラスの男はロン毛だ。しかも隣に立つ特徴のあるメガネ男とコンビのようだ。
「いやぁ、今回のTV見仏記(けんぶつき)のロケもみうらさんのお陰ですっかり雨が止みました」
「いとうさん、それは今、僕が肛門を強く引き締めてるせいであって、緩めるとまた、ザーッときますからね」
“何を言ってるんだこいつら”と、男はその訳のわからないトークを耳にし思った。
円広志なら分るが、たぶん関西ローカルのお笑いコンビだろう。彼女も落胆した様子ですぐに戻ってきた。
それからそそくさと現場を離れ、仕方なく散策に出たが男は、
「ねぇねぇ、あのショップ、おシャレじゃない?」
と、いちいち同調を求めてくる彼女にイラ立ちを覚えた。
突然、雨が止んだせいで、土産物屋が立ち並ぶ細い道は結構人通りがある。万が一知り合いにでも会ったら……。
「ねぇねぇ、この石鹸、カワイくない? でも、やっぱり入浴剤の方がいいかしら?」
男はそんなことより彼女が友達にその土産を渡す時「誰と行ったの?」と、聞かれることを心配してた。
「あ、これは俺が買ってあげる」
早く会計を済ませこの狭い店内から出たいがためそんなことを言ったが、
「すいません、カメラ回してもいいですか?」
と、あろうことか、先ほどのロケ隊が入って来たではないか。
“マズイ……今度は確実に映り込んでしまう……”
男は慌てて彼女に財布を渡し、外に飛び出した。
ようやくのことでレンタカーを停めた旅館の屋外駐車場にたどり着いたが、またも男の脳裏を嫌な予感が過った。そこにはロケバスらしき車も停っていたからである。
案の定「あ! いいワッフル出てる!!」などと、大声で叫びながら霧の晴れた山を指さし、あいつらが戻って来た。
“また何を言ってやがるんだ……”
(ちなみにこの場合のワッフルとは、山の斜面に格子状の枠をモルタル・コンクリートで造成したものを示す)
男はむしゃくしゃしてアクセルを強く踏むのだった。

source : 週刊文春 2021年12月23日号