豊島は、AIは棋士の敵ではなく、将棋という無限の宇宙を探究する同志にも教師にもなると気が付いた。
第三章 人が生み出すもの 其の二
豊島将之からの連絡が途絶えてからも、斎藤慎太郎は関西将棋会館へ通った。他の棋士を相手に研究会を続けた。日々は一見するとこれまでと同じように流れていた。JR福島駅を降りて、なにわ筋を北へ向かう。ただ、サラリーマンが行き交う通い慣れたはずの道がどこかいつもと違っていた。棋士室に着いても、そこに豊島の姿はなかった。憧れの存在が目の前からいなくなってしまったことは想像していた以上に大きな穴を心に空けていた。それでも前に進まなければならない。プロ棋士になって3年目、斎藤は豊島のいなくなった棋士室で指し続けた。
そんな日々の中、ある噂が斎藤の耳に届いた。どうやら豊島は自宅でひとり、将棋ソフトを相手に研究しているらしい――。
うっすらと察していた。斎藤の眼には、豊島が2014年春に行われた第3回電王戦に出場し、コンピューターの将棋ソフトと対局した過程で何かに気づき、葛藤しているように映っていた。そして、王座戦で羽生善治に敗れたのを機に踏み切った――人間ではなく、人工知能を相手に研究する道を選んだのだ。
棋士とコンピューターはどちらが強いのか。電王戦はそれをテーマに始まった大会だった。だが、人工知能の進化とともに将棋ソフトが急激に力をつけ、棋士に肉薄してきた。そしてトップ棋士が敗れる事態になると棋界にはデリケートな空気が流れるようになった。もし、棋士に勝るソフトがこの世に現れたとすれば、棋士はコンピューターに勝てないと証明されたとしたら、棋士の存在意義はどうなってしまうのか。人々はもう、人間同士の対局に関心を抱かなくなってしまうのではないか。
まだプロの階段を上り始めたばかりの斎藤にもそうした危機感はあった。おそらく3歳上の豊島はそれ以上の切実さで感じていたはずだった。ただ、それでも豊島は電王戦への出場を望んだ。そこに棋士として前に進むための何かを見出していたのだ。
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source : 週刊文春 2023年6月29日号