関西の将棋道場に現れた5歳の少年の眼差しに、土井春左右は棋士としての未来と、自らの過去を見ていた。
第三章 人が生み出すもの 其の三
豊島将之に出会ってから土井春左右(はるぞう)の日常は変わった。折目のついたシャツに身を包み、定刻前に関西将棋会館の道場へ出勤するのはこれまで通りだったが、営業が始まると土井は業務の傍ら、あの5歳の少年を待つようになっていた。
豊島は母親の言葉通り、水曜日と土曜日の午後、幼稚園を終えてからやってきた。まだ将棋を覚えたばかりだということもあり、六枚落ちで手合いをつけても勝てなかった。そんな少年に土井は声をかけた。
「六枚落ちには六枚落ちの指し方があるんだよ」
それは定跡(じょうせき)と呼ばれるものだった。豊島はじっと土井の目を見て、聞いていた。初めて会った日、有段者の対局を見つめていたあの眼差しだった。豊島は一度教えたことはすぐに自分のものにした。普通、幼い子には何度も言って聞かせなければならなかったが、豊島には同じことを二度言う必要がなかった。手合いの合間、他の子供たちが机と机の間を走り回っている時、豊島は道場の隅にある棚から将棋の教本を取り出して読んでいた。喧騒の中、自分だけの世界をつくり上げていた。
「5歳で、もう字が読めるの?」
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source : 週刊文春 2023年7月6日号