羽生善治、棋界初の七冠を制す――。無冠となった谷川の姿を見つめる山村記者に、あの日の思いが去来する。
第四章 夜明けの一手 其の三
羽生善治が日本海に臨む山口県豊浦町を発ったのは、将棋界が史上初の七冠制覇に揺れた翌日だった。冬空の下、羽生は微笑んでいた。王将戦の主催者として同行した毎日新聞社学芸部の山村英樹にしてみれば、3日前、熱を出した彼とともに空港でキャンセル待ちをしたのが随分と前の事のように感じられた。いつものように山村や関係者と新幹線に揺られ、機上の人となった羽生は、盤を離れると25歳の青年の佇まいに戻っていた。だが、世の中は羽生をこれまで通りに扱ってはくれなかった。道をゆけば人が振り向き、テレビのワイドショーでは趣味やファッションから婚約に至るまでプライベートが報じられた。羽田空港から都心へ向かうハイヤーに乗り込むと、後ろをつけてくる車があった。報道車輛のようだった。
「撒きましょうか?」
運転手が表情を強張らせた。意識過剰になったのか、羽生を乗せた車は都心まで走ったところで衝突事故を起こしてしまった。幸い羽生は無傷だったが、報道の過熱ぶりは想像以上だった。
山村は棋界の大きな転換点を目の当たりにしていた。将棋を指したことがない人々も羽生の顔とその人物像を知っていた。かつてこれほど大衆に知られた棋士がいただろうか? これまでは、その伝統と高度な専門性から万人が踏み入ることのできなかった将棋界が羽生の絶頂とともに開かれ、新時代を迎えていた。そして脚光を浴びる七冠王を見るにつけ、やはり心の隅では谷川浩司の残像が消えなかった。
前夜、第45期王将戦第4局で敗れ、七冠独占を許した谷川は終局後の打ち上げの席で羽生に酒を注いだ。そして夜のうちに神戸に帰っていった。その時、空から落ちていた雨を“谷川の涙雨”だと表現した者がいた。山村は去っていく谷川の背中を複雑な思いで見送った。
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source : 週刊文春 2023年7月27日号