あの日の信じ難い敗局。森内は迷いの中を彷徨いながらも羽生が放つ新しい将棋に心をかき立てられていた。
第五章 王将の座 其の三
森内俊之は初めてのタイトル戦が幕を降ろした翌朝、愛知県蒲郡市の西浦温泉からどのように帰ったのか、ほとんど覚えていなかった。あの日の三河湾が波立っていたのか、凪だったのか、帰路にどんな景色を目にしたのか、記憶はすっぽりと抜け落ちていた。残っているのはただ、詰みだと確信した瞬間から敗局に足を踏み入れたという、あの信じ難い盤面のみだった。
このままでは勝てない……。
それが羽生善治と戦って得た実感であり、同い年の七冠王とは決定的な差があることを思い知った。そして2カ月後、敗れた森内の内心をさらにかき乱すような“事件”が起きた。1996年の7月、第67期棋聖戦で22歳、三浦弘行の挑戦を受けた羽生がフルセットの末に敗れ、失冠したのだ。七冠独占は半年で終わりを告げることになった。全てのタイトルが一人のものになることは棋士たちにとって屈辱であり、それが破られたことによる安堵が棋界全体の空気ではあったが、森内の受け止め方は違っていた。
このままでは勝てないと感じた絶対王者が他者に敗れたのであれば、自分は一体何だろうか……。
森内は将棋界に入った頃から、この世界のトップに立たなければならないと考えてきた。つまり駒で言えば王将になりたかった。完璧主義者は徹底的に定跡を研究し、どんな局面においても最善手を自分に叩き込もうとした。そのために10代から20代半ばまでの時間を費やしてきた。だが羽生に埋めがたい差を見せつけられ、その羽生が自分以外の棋士に敗れたことによって森内が追い求めてきたものは大きく揺らぎ、霞んでしまった。
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source : 週刊文春 2023年8月31日号