震えている。眼前の羽生の指が、駒を指せないほど震えている。王座戦最終局。渡辺は異様な光景を見ていた。

扉写真 弦巻勝

2023年2月26日 第72期王将戦第5局 2日目 島根・大田

 羽生善治は劣勢に立たされていた。ボクシングの試合でいえば、ロープ際に追いつめられようかという状況だった。2勝2敗。勝った方が王手をかける第5局は先手番の藤井聡太が積極的な姿勢を見せていた。挑戦者の羽生も横歩取りという得意戦法で応じたが、2日目に入って次第にリードを広げられつつあった。指手を進めるごとにAIが表示する勝率を上げ、終局まで上昇し続けるカーブは“藤井曲線”と呼ばれている。やはり勝率96パーセントを誇る藤井の先手番を破ることは不可能なのか……。そんな空気が漂っていた。

 藤井の動きが止まったのは午後2時に差しかかった頃だった。羽生の一手がそうさせた。自陣の囲いに打った金は、ロープを背負ったボクサーが決して倒れないという意志を示すかのような一手だった。

 動きを止めた藤井は手にした扇子を扇ぎ始めた。速くなる扇子のリズムとともに20歳の五冠王が長考に沈んでいく。前日には羽生がこのシリーズ最長となる141分の長考をしていた。この第5局の重みを物語るように両者の読みは第三者には計り知れない深みに達しているようだった。

 山陰の夕刻、冬の淡い陽が木々の向こうに消える頃には2人の立場は入れ替わっていた。ロープ際を脱した羽生が藤井陣内に飛車を打つ。そこでインターネット中継の画面に表示されるAIの評価値は羽生70パーセント、藤井30パーセントとなった。藤井曲線に乱れが生じた。長考した末の藤井の一手が疑問手だったという。羽生の執念の一手が優劣の逆転を生んだのだ。

 今度は羽生が前に出て、藤井が抗する展開となった。

「なんですか、これは……。難解すぎる」

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source : 週刊文春 2023年9月7日号