〈7……8……〉刻が思考を削る1分将棋。渡辺は残り1秒の手にも、運ではなく実力を求めた。〈9――〉
第六章 敗北の意味 其の二
ああ、負けたな……。
渡辺明はその瞬間、ゲームの世界のように、ここから先の数時間を飛ばしてしまえたらと考えた。敗局直後、身を切られるような心境で質問を受けたり、カメラのフラッシュを浴びせられたりする時間をスキップできればどんなにいいだろうか――。
2008年の秋、将棋界は「百年に一度の大勝負」と言われるタイトル戦を迎えていた。第21期竜王戦。渡辺が連続在位5期で初代永世竜王となるか、羽生善治が奪取して史上初の永世七冠を達成するか。永世称号をかけた七番勝負であった。
羽生に敗れて涙したあの19歳の夜から5年。渡辺は20歳で竜王となり、そこから4連覇を成し遂げていた。タイトルホルダーとなり、新たな時代の旗手と認められた渡辺だが、羽生と自分との間には大きな隔たりがあると感じていた。
歴史上、タイトルを獲得したことのある棋士は30人を超えるが、そのうち永世称号を獲得した者は10人に満たない。トップ棋士の中にもさらに特別な世界があり、大山康晴や羽生のいる側に足を踏み入れようとするなら、永世称号が必要だった。人生が変わるか否か。渡辺にとってそんな意味を持った番勝負だった。
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source : 週刊文春 2023年9月14日号