【前回までのあらすじ】東京の事務所を辞めて以来、久しぶりに東京へ向かう新幹線の中で久代奏は十七年前の上京したての頃を思い出していた。サークルや予備校には入らず、親しい友人もできなかった奏は大学生活早々に孤独を抱えていた。そんな時、天童ショージが中野の劇場に出ることを知るも、足を運ぶことはなかった。それは彼の気持ちを察したがゆえの行動だった。

 

「会いに行く」ことは、余計な責を生むかもしれない。その一方で「遭遇する」ことには意思の介在がない分、フラットに向き合える。奏にとっては、あの鴨川のときのような再会が理想的だった。しかし、東京という街は容易に「偶然」を許してくれなかった。

 そんなモノトーンのような生活に彩りを与えたのは音楽だ。一人で家電量販店をウロウロしていたとき、美しいウッド調の電子ピアノが奏の目に留まった。幼少から習っていたピアノは中学のときに止めてしまい、以来鍵盤に触れていなかった。

 試し弾きでヘンデルの『パッサカリア』を演奏すると、すごく気持ちよかった。このとき、周りにいた数人の客に拍手されたことで、奏のピアノ熱に火がつくことになる。

 それまでのままならぬ学生生活の反動もあってか、奏は自制できずにATMへ走った。売り場の中心に展示されていたウッド調のものにはとても手が出せなかったが、他のキーボードの中にひっそりと埋もれていた――大学での自分のように――六万円の電子ピアノを買った。会計のときに手が震えたのは、後にも先にもこのとき一度だけである。

 帰宅後は狭い部屋の中であれこれ考えてスペースをつくり、翌日、電子ピアノを「三顧の礼」で迎えた。奏はこのピアノを「椿」と名付け、初めて鍵盤の前に座ったときは嬉しくて身震いするほどだった。

 ヘッドホンをして右手の親指が「ソ」の音を押さえると、無意識に人差し指が「ラ」のフラットに連なり、左手も動き始めた。暗譜している曲はいくつかあるが、最も弾き慣れたメロディへと指が誘う。

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source : 週刊文春 2023年11月9日号