イッセー尾形とベケットをやりましたよ
―― いきなりアドリブ中心ということに戸惑いはありませんでしたか?
高田 思いつくままにしゃべれと言われても難しいんですよね。初舞台が『A列車』という芝居で、最初は狂言回しの役に抜擢されたんですよ。「純次、いい役もらったな」って言われてたんだけど、稽古で即興がうまくできなくて、スコンと切られちゃった(笑)。結局は、その他大勢みたいな役で出ましたね。それから卒業公演に出て、柄本たちは自由劇場に残ったけど、僕は残らなかった。といっても、クビになったみたいなもんだよ。やっぱり『A列車』がよくなかったからなあ……。
―― 高田さんにもアドリブが苦手な時代があったというのは驚きです。
高田 今だって、たまにドラマでアドリブやるんだけど、たいてい切られちゃうよ(笑)。
―― 自由劇場卒業後は、イッセー尾形さんと劇団「うでくらべ」を結成されていますね。
高田 10カ月くらいやったのかな。森田雄三さんの演出で、ベケットをやりました。これが僕にとって、初めて台本のある芝居だったんです。
―― いきなりベケットですか。サミュエル・ベケットといえば、『ゴドーを待ちながら』などの不条理演劇を代表するノーベル文学賞作家。高田さんとの組み合わせが意外です……。
高田 『勝負の終わり』という作品で、イッセー尾形と二人芝居だったんだけど、もう何がなんだかわかりませんでしたね。僕は車椅子に座った盲目の男、イッセー尾形が召使の役。あんな難しい芝居、今だってできないよ(笑)。あのころは、ピーター・ブルックの『なにもない空間』を一生懸命読んでたりしたんだけど。
女の子をやっつけるのも忘れて家に帰った夜
―― 『なにもない空間』は、現代演劇のバイブルとも言われる演劇論。高田さんも演劇青年として読んでたんですか!
高田 みんなが読まなきゃいけないって言うからね。そうなんだって感じで。
―― 「うでくらべ」が解散になったあと、高田さんは宝石卸会社「トキモト」のサラリーマンになって一度芝居から離れますが、そのころに柄本さんやベンガルさんが劇団「東京乾電池」を旗上げしています。
高田 僕も柄本たちに誘われたんですよ。だけど、仕事がちょうど軌道に乗ってきたし、芝居やっても食えないからって断った。それでも、浅草の木馬館でやった第1回公演は観に行きましたよ。それが大コケだったんで、大笑いしながら帰りました。女房と行ったんだけど、「こんなのやんないでよかったね」って言いながら。
―― ところが、その約半年後、1977年9月に東京乾電池に参加します。
高田 ある時、女の子を誘って新宿の「ボルガ」という店に飲みに行ったら、たまたま柄本やベンガルたちもいたんです。それで一緒に飲もうってことになったんですけど、みんな演劇論を交わし合うのよ。なんか、その本気な感じを見ててショックを受けちゃったんだよな。落ち込んじゃって、その日は女の子をやっつけるのも忘れて家に帰った(笑)。そのすぐ後だね、ベンガルから「次の公演に出ないか」って電話がかかってきたの。