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30歳で辞表 さすがに芝居をやるって言えなかった

―― 順調だった仕事を辞めるのは、大きな決断だったんじゃないですか?

高田 もう30歳になってたからね。ここでやらなかったら、ずっとサラリーマンでいくしかないし、こういうチャンスもないかなって。貯金もちょこっとあったし。それですぐに辞表を書きました。「一身上の都合で」と書いたら、「何すんの?」って聞かれたけど、さすがに芝居をやるって言えなかった。だから、社長は他の会社に引き抜かれたと思ってたみたい。

―― これだけの決断、奥様の反応はどうだったんですか?

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高田 会社に辞表を出してから何日か経ってから女房に言ったのよ。さすがに泣かれてしまいましたけどね。「家族は食わして行くから」「仕方ないわ」って話し合いをして、それ以来も一緒に過ごしてますけど、こればっかりはありがたいって思ってますよ。

 

―― 東京乾電池は自由劇場の出身者がつくった劇団ですが、やはり稽古はアドリブ中心ですか。

高田 そう。公演の1カ月前から稽古するんだけど、簡単なプロットだけがあって、あとは即興で作っていく。稽古でウケなかったら、どんどん変えちゃうんですよ。そのころは、稽古を5時までして、水道管工事とか肉体労働のアルバイトを6時から朝5時まで。それから帰って寝て、また昼12時から稽古というのを繰り返してました。東京乾電池って年に3回くらい公演やるんですよ。そんなにやんなくていいのに(笑)。

情熱はあんまりなかったかな。ただ、面白かった

―― 結婚してお子さんもいる中で、それだけハードな生活ができたのは、演劇への熱い思いがあってのことなんでしょうか。

高田 情熱はあんまりなかったかな。ただ、面白かったんですよ、東京乾電池で芝居やってることが。新しいことやってるんだっていう自負もあったし、お客さんの目の前で舞台に立つのも面白かった。貯金はすぐに使い果たしちゃったけど、もう少し続けたい、もう少しやりたいって、アルバイトしながらやってましたね。乾電池にいた10年間は、ほんと楽しかった。

 

―― 高田さんの初出演は、『幸せ色は僕のもの、不幸せ色は君のもの』。久しぶりの舞台に立った時の思い出はありますか?

高田 これが調子よくてね。『アサヒグラフ』が取材に来たり、『11PM』に映ったりしました。その公演は新大久保の小さな劇場だったんだけど、そのあとに照明の日高さんって方が渋谷ジァン・ジァンを紹介してくれたんです。ジァン・ジァンは、1回やって客の入りがよければ、また出させてくれるって話だったの。それが意外とお客さんが入ったんで、定期的に公演をやらせてもらえるようになりました。

―― 渋谷ジァン・ジァンは公園通りにあった小劇場で、いわば「サブカルの聖地」とされるような場所だったのですよね。

高田 演劇人の中では、よく知られた場所でしたね。キャパが小さいから、みんな入り口前に並ばなきゃならないの。渋谷でそんな行列ができちゃうと、人気がある劇団みたいに思うじゃない(笑)。それもあって評判になったのか、乾電池にも毎回若いお客さんが並んでくれるようになりました。だから、自分でチケット売る苦労はなかったですね。