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「東京乾電池」を40歳で辞めるまで

―― 1980年前後の当時は、若者の間に小劇場ブームが起きていて、東京ヴォードヴィルショーや劇団「つかこうへい事務所」も人気でした。彼らの存在は意識しましたか?

高田 東京ヴォードヴィルショーの佐藤B作さんは年下だけど、自由劇場の先輩です。東京乾電池にとっては目標で、追いつけ追い越せでしたね。つかさんは、もう第一線で活躍してたから、僕らのような下っ端と比べられるような存在じゃなかったな。そのころは、いろんな劇団を観に行きましたよ。文学座や劇団四季にも行ったし、アングラでは唐十郎さんの状況劇場、岡部耕大さんの空間演技、流山児祥さんの演劇団。あと、井上ひさしさんの芝居も。

 

―― 高田さんが演劇人として自信を持ち始めたのは、いつぐらいですか?

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高田 僕というよりも、劇団が自信を持ち始めたのは紀伊國屋ホールで公演をしたとき(1983年『リルの着く駅』)かな。岩松了が初めて台本を書いて、僕らにも1公演1万円のギャラが出ましたから。地方公演にも行けたのがうれしくてね。終演後に焼肉屋で打ち上げするんだけど、僕ら5人の幹部は肉食えるんですよ。でも、下っ端はセンマイとか野菜ばっかり。

―― けっこう体育会系のノリですね(笑)。

高田 そう、下っ端は肉食えないの(笑)。そんなことしながら、僕は東京乾電池を1987年に退団するまで、10年やりました。ちょうど40歳までか。

 

常に今だけを生きてきた

―― 1985年に『天才・たけしの元気が出るテレビ‼』が始まり、高田さんがテレビでも人気者になるころですね。

高田 テレビのレギュラーをやってると、劇団では居心地が悪いんですよ。テレビに出ながら、公演はちょこっとだけというわけにはいかないでしょ。葛藤したこともありました。それでだんだん居づらくなって辞めたって感じですね。これも僕にとっては決断だったよね。最後の舞台は、山崎哲さんが豊田商事事件をモデルに書いた『まことむすびの事件』。そのあとは、ちょこちょこ仕事をしながら、こうして現在に至るわけですけど。

―― その現在に至るまで、あと30年くらいありますよ(笑)。

高田 あ、そうだよね。でも、70過ぎてこうやって振り返ってみると、僕って俳優でもないし、芸人でもないし、なんか中途半端な立場のような気もしますよ。その意味では「明日の1万より今日の1000円」って考え方してるから、その場その場でやってきた感じはあるかな。『元気が出るテレビ』以降、バラエティの仕事が続くわけですけど、それも常に今だけを生きてきたからって気はしますね。

#2 高田純次「笑い」を語る に続く)

 

写真=鈴木七絵/文藝春秋

たかだ・じゅんじ/1947年、東京・調布市生まれ。都立府中高校を経て、68年に東京デザイナー学院を卒業。『適当論』『高田純次のチンケな自伝』など著書も多数。