※こちらは文春野球のライター講座「文春野球学校 長谷川ゼミ」受講生の課題原稿の中で「優秀賞」を受賞したコラムです。
【長谷川晶一氏、推薦コメント】
昔から、自分にない才能に惹かれる性分でした。文春野球において、西澤千央さん、オギリマサホさんのコラムを楽しみに読んでいるのは、間違いなく「こんなコラムは逆立ちしたって書けないよ」という思いがあるからです。先日、初の試みとして行った「文春野球学校」では、受講生のみなさんに課題文を書いていただき、そのすべてを添削しました。その中で唯一、「これはオレには書けないや」と感じたのが、これからご紹介する「カトケンのヤナケン」、いや、「ヤナケンのカトケン」でした。晩年の猪木の試合のような哀愁漂うヤナケンコラム。ブルースが聞こえるヤナケンコラム。どうぞ、ご堪能ください!
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「オイッス~!」
ザ・ドリフターズのいかりや長介が客席に呼び掛ける。
1984年。7歳。小学校1年生。
新潟県柏崎市の平凡な家庭で同じように「オイッス~!」と声を張り上げているボクがいた。テレビ番組「8時だョ!全員集合」。その中でも子供達に絶大な人気を誇った加藤茶と志村けん。
「8時だョ!全員集合」が1985年に終了し、引き継いだのが「加トチャンケンチャンごきげんテレビ」。加トチャンケンチャンは当時小学生のボクにとってのヒーローだった。
13年後。1999年。22歳。専門学校生。
上京して初めて住んだボロアパートの最寄り駅は「京王稲田堤」。その隣駅「京王よみうりランド前」。駅前から始まる長い階段を上りきった所にあるイナタいグランドに小学生のヒーローだった二人の名前を引継いだ男がいる。
加藤健。通称カトケン。
1998年読売巨人軍にドラフト3位で指名された新潟県新発田農業高校出身の捕手である。同じ新潟県出身。自分より3学年下の松坂世代。
ちなみに俺の名前はヤナギケン。学生時代のあだ名はヤナケン。憧れていたヒーローに自分と同じ共通項を見つけた時、ヒーローがやがてスーパースターに進化する。
カトケンとヤナケンの東京生活が始まって行った。
カトケンとの東京生活
ジャイアンツ球場でイースタン・リーグの試合を観戦する時、決まって3塁側からジャイアンツベンチを覗き込んだ。
加藤はチームメイトと会話しているだろうか。チームメイトは加藤のプレーに声援を送ってくれているだろうか。監督・コーチは加藤にきちんと指導をしてくれているだろうか。
いつしかプレー内容よりも、「きちんとチームになじめているのかな?」。そんなことばかり気になっていた。
カトケン、俺も東京になかなかなじめなかったから。京王線の特急って特急料金は要らないんだね。
2000年。秋の消化ゲームで加藤が2年目にしてスタメンマスクを被り、将来の正捕手候補として英才教育を施されていた時、俺は就職せずフリーターの道を選んでいた。
カトケン、俺はもうちょっと遊んでみたかったんだ。
2001年、阿部慎之助が入団しスタメンマスクを被る日々が続き、加藤の英才教育の道すじが変化した時、俺は働きながらギター弾語りのライブ活動を開始した。
カトケン、俺はまだ誰かが俺を見捨てず、そのうち自分のことを見つけてくれると信じていたよ。
2006年、交流戦の千葉ロッテ戦で渡辺俊介からプロ入り初ヒットを放った時、俺はみずほ銀行のATMで数百円単位の貯金を下ろしていた。
カトケン、とにかくお金がなかったんだ。
2007年、横浜ベイスターズの寺原隼人からプロ入り初ホームランを放った翌朝。スポーツ新聞全紙を購入した。その3ヶ月後、俺は連れの女から「他に好きな人がいる」と告げられる。
カトケン、人生ってほろ苦いね。
2011年、阿部慎之助の怪我で加藤のスタメンマスクが増えた時、俺はあんなに嫌だった仕事が少しずつ楽しくなっていた。
カトケン、人の意見に従ってみるのも良いもんだね。
2015年、プロ入り17年目にしてキャリアハイの35試合に出場した時、俺は上司とケンカして10年間働いた会社を辞め、その3ヶ月後、各所に頭を下げ元の会社に再び戻った。
カトケン、俺は自分のことがよくわからなくなったよ。
そして、2016年戦力外通告を受け、甲子園でトライアウトに参加している時、私は変わらない日常を過ごしていた。
カトケン、ボブ・ディランの「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を聞いてたんだ。サビのフレーズは「すべて終わったのさベイビー・ブルー」。私達も年をとった。何かが終わってしまうということはつらく悲しいもんだね。
加藤健。一軍公式戦出場は通算185試合にも関わらず実働年数は18年である。