カリスマ経営者が、一夜にして獄に繋がれる身となった。
倒産寸前だった日産をV字回復させ、世界第2位の自動車会社連合を育て上げたカルロス・ゴーンの輝かしい業績は、日本だけでなく世界中から称賛されてきた。彼が類稀な手腕をもった経営者であることは論をまたない。
20年周期で繰り返されてきた内紛
ところが、ゴーンは驚くべき裏の顔を持っていた。公表されていた報酬の約2倍もの金額を実際には得る予定だったことや、18億円以上もの個人的な投資の評価損を一時的に会社に付け替えていたこと、会社の資金を個人的な利益のために流用していた疑いなどが、逮捕と当時に次々に明るみに出たのである。
倒産の瀬戸際から救って以来、約20年にわたってゴーンが支配してきた日産は、絶妙のタイミングで「社内調査」の結果を公表し、彼をトップの座から引きずりおろした。しかも、その尖兵となったのは、ゴーンが寵愛した「チルドレン」たちだったのである。
これは検察の力を借りた「クーデター」としての側面があったことは否定できない。
だが、単純な権力交代劇としてゴーン逮捕を捉えては本質を見誤る。
日産の企業統治はある時期から取締役会が機能せず、ゴーンによる専制君主制のようなガバナンスに変わり果てていた。それはいったいなぜなのかを検証し、私たち自身で組織のあり方を省みる作業をしなければ、日本の企業は同じような過ちを繰り返すことになるだろう。
20年周期で繰り返されてきた内紛
ヒントは「歴史」にある。
日産の創業以来の歴史を振り返ると、ほぼ20年周期で大きな内紛が起こっている。その都度、「独裁者」と呼ばれる権力者があらわれた。また、制御不能のモンスターと化した権力者を排除するために新たな権力者があらわれ、その権力者がまた制御不能のモンスターと化すこともあった。
日産は戦前の日産コンツェルンに源を発する。創業者・鮎川義介は岸信介ら政界と密接な関わりをもち、満州に進出した。戦後は労働争議が長引き、労組との対立が先鋭化。会社側が画策して発足した御用労組から「日産の天皇」とまで呼ばれた塩路一郎が出現した。労組との融和路線を敷いた社長の川又克二と蜜月だった塩路は、会社を牛耳った。塩路が手に負えなくなった日産は、ゴーン追放で検察の力を借りたように、メディアの力を借りて塩路を放逐した。陰湿的なやり口だった。
その塩路放逐の黒幕である石原俊がまた暴走し、社長時代に無謀な海外投資で借入金を増やした。しかも社内のライバルの追い落としのために、成功したブランドまでも潰して、名門企業を傾かせてしまった。