私はもしかしたら、10年近く前に、尾崎君に会っていたかもしれない。
ゼロ年代後半、彼はクリープハイプで、すでに下北沢のライブハウスシーンで活躍していたが、殆ど同じ頃、私もまた界隈で音楽活動をしていた。その後に紆余曲折あり、私は小説で、彼は音楽でデビューする。お互いデビューした時期もかなり近い。そして2016年、彼は小説『祐介』(文藝春秋)を上梓するが、文春の担当編集者が、私と同じだった。音楽、小説、担当編集と、いくつかの符号が重なる。
人懐こそうな猫の瞳をしている
2019年、第160回芥川賞贈呈式の会場にて、私は彼と初めて言葉を交わすことになる。彼は私のデビュー作『指の骨』(新潮社)を大変評価しているという。間近で見る尾崎君は、想像していたよりも華奢で、黒髪は上瞼にかかるほどで、人懐こそうな猫の瞳をしている。その場で彼から、こんな誘いを受けた。
「3月18日にライブがあるんで、高橋さんもぜひ観にきて下さい。」
いいだろう、とは、私は言わなかった。私は彼の瞳を見て、およそ次のように述べた。
「ほ、本当ですか、こ、光栄であります! その際は、せんえつながらこのタカハシが、こ、渾身のライブレポートを書きます!」
そう、私は人気バンドのフロントマンを間近にして、びびっていたのだ。そしてその渾身のライブレポートが、本稿である。
僅かに鼓動が高鳴っていることに気づく
そして、2019年、3月18日、日暮れ、私はNHKホールを訪れた。タクシーから降りると、代々木公園の南に位置するその一帯は、淡い紫色に包まれていた。その紫色の中に、ホール正面玄関の白い明かりがぼんやりと灯っている。会場へ入ると、3階まであるホールの座席は、すでに殆どが埋まっている。私は2階左手の、関係者席へと通された。
席に腰を下ろすと、僅かに鼓動が高鳴っていることに気づく。ライブが始まる直前の、浮き足立つような緊張を覚える。やがて会場の照明が落とされ、3000人余りの歓声が響く。尾崎君は舞台中央のマイクスタンドの前に立ち、すると彼に向けて一条の白い灯光が落ち、会場は一変して沈黙に浸される。彼はその沈黙の中で、静かにギターを奏で始めた。