作家であり、歌人であり、俳人であり、場合によっては廃人と見なされることもあるノヴェリスト高橋であるが、なぜかこの度、将棋の観戦日記を記すことになった。

 なんでこいつとつぜん将棋の観戦日記とか書き始めてるんだ、前からアレだと思ってたが、ついにアレになったか、と疑問に思う読者も多いだろう。よって簡単に、ことの経緯を記しておく。

高橋弘希氏は、『送り火』で第159回芥川賞を受賞した

「平手もアレなんで、飛車角落としましょか?」

 私はとある辺境の集落で生まれた。幼少期より将棋の才に恵まれ、齢十を超える頃には、すでに村に敵はなかった。私は村の神童と呼ばれ、皆は私が名人のタイトルを獲ると疑わなかった。

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「わぁの村から将棋の名人でたら、これ以上の名誉はなかんべ」前職祈祷師の、分家の高橋爺さんは述べた。

 そして齢二十にして私は上京し、肩慣らしに新宿将棋センターを訪れた。白髪のご老人が対局を挑んできた。ご老人には申し訳ないが、私が名人になる為の礎になって貰おう。

 1局目、私は自ら編み出した戦術、高橋システムを用いたが、ご老人の恐るべき棒銀に敗北を喫した。私は混乱した。

 2局目、私は自ら編み出した秘策、ゴキゲン高橋(通称ゴキ高)を用いたが、やはりご老人の恐るべき棒銀に敗北を喫した。これは悪夢だろうか。

 そして3局目、振駒の末に、ご老人は述べた。

「平手もアレなんで、飛車角落としましょか?」

 屈辱であった。当時の私は、自身を升田幸三の生き写しであると信じて疑わず、雑誌『将棋世界』に「棋界に彗星の如く登場した鬼才、高橋四段、名人に香車を引いて勝つ!」という見出しが載るところまで、思い描いていたのだ。

 その私が、香車を落とすどころか、どこぞの老人に飛車角落としをすすめられるとは――。私は赤面した。すぐさまこの場を立ち去り、村に帰りたかった。その後の私の記憶は無い。

 こうして私は棋士への道を諦めた。しかし今にして思えば、あのご老人は恰幅がよく、白髪頭で、恵比寿顔で、異様にネクタイが長く――、つまり加藤一二三、その人に違いないのだった。

「棒銀」と呼ばれる戦術を得意とした加藤一二三九段 ©文藝春秋