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芥川賞作家・高橋弘希が藤井聡太の勝利に感じた“文学に近しいもの”

芥川賞作家・高橋弘希が藤井聡太の勝利に感じた“文学に近しいもの”

――朝日杯将棋オープン戦観戦日記

2019/02/24
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 あの屈辱の敗戦から十余年、私はなぜかA賞を受賞する。その後、朝日新聞社依頼の受賞記念エッセイにて、前述の加藤一二三と思しき老人との激戦を記し、内容的にはまったく受賞記念エッセイになっておらず、朝日新聞文化部からはひんしゅくを買ったが、将棋界隈の住人からは、なんだこいつは、と興味を持たれた。

 そしてこの度、朝日新聞・将棋班のM瀬記者の計らいもあり、第12回朝日杯将棋オープン戦に招待されたのだ。私に将棋観戦記を書いて欲しいという。

600人で埋まった会場と、沈黙の対局

 して、私は2月16日の午前9時半、東京都千代田区の有楽町マリオン12階にある、朝日ホールを訪れた。M瀬記者に案内されて、会場の関係者席へと向かう。観客席600ほどのホールで、その殆どの席がすでに埋まっていた。

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将棋界では珍しい公開対局とあって、座席数600の朝日ホールは満席だった ©文藝春秋

 舞台上にはすでに、机と椅子、将棋盤が用意されている。行方尚史八段と藤井聡太七段、渡辺明棋王と千田翔太六段、この2局がステージ上で同時に行われ、勝者が午後の決勝戦に進出する。私は観客席の左手、行方氏対藤井氏の目の前に案内された。よって本稿では、この対局について記す。

 振駒の末、先手が行方氏、後手が藤井氏となる。互いが一枚一枚の駒を順番に並べたのちに、対局が始まる。会場内の約600人の観客は、誰も一言も喋らない。無言である。駒を打つ音と、カメラマンがシャッターを切る音だけが、沈黙の会場に無機質に響く。そんな折、私の隣の関係者席に座っていた老人が、おもむろに席を立ち、会場から出ていった。具合でも悪くなったのだろうか――。

恰幅がよく、白髪頭で、恵比寿顔で、異様にネクタイが長く――

 ちなみに私は手元のスマホにて、AbemaTVで生中継されている、大盤解説もときに拝聴していた。大盤解説は一つ下の階、11階の朝日スクエアで行われていた。と、スマホの画面に、大盤解説の壇上へと上がる、一人の老人の姿が映された。私の隣席に座っていた老人である。そして正面から見て気づいたが、ご老人は、恰幅がよく、白髪頭で、恵比寿顔で、異様にネクタイが長く――、つまり加藤一二三、その人であった。

準決勝は、行方八段の先手番で始まった ©文藝春秋

 加藤氏は解説を終えると、颯爽と壇上を降り、スマホの画面の右端へと消えた。これより1分後、私の左手前方のドアが開き、加藤氏は、再び私の隣席へ座った。私は氏の瞳をまっすぐに見て、

「私はかつてあなたと対局したことがある。私はあなたの恐るべき棒銀に敗れ、棋士の夢を断念した。屈辱であった。しかし私はあなたに感謝している。おそらく私がプロ棋士を目指しても、名人のタイトルは獲れなかっただろう。おかげで私は別の道を選び、結果としてA賞を獲ることができた。今は亡き、前職祈祷師の分家の高橋爺さんも喜んでいるだろう。だから私はあなたを責めない。私はあなたに感謝している――」

 とは言わなかった。私はびびっていたのだ。

 こぉがあの神武以来の天才いわれた、将棋界のカリスマ、加藤一二三さんが、ご老体ちゅうてもオーラが違う、まるで真剣ば喉元さ突きつけられてるようだべ――。私は額の脂汗を拭い、隣に座っているのは、近所のなんか将棋がやたら強い爺さんであると思い込むことにして、ステージの対局に集中した。