「皇后陛下は貧血?で御気分悪くなられ」
これに先立ち、侍従ら職員は「習礼」という事前練習を重ねていた。同年の11月3日の日記には〈即位礼の習礼。束帯は下着から一式全部で6.5kgある〉〈石帯をつけると装束は重く、2時間余り立ち通しでぐったり疲れた〉とつづられている。石帯(せきたい)は、漆塗りの帯で、地位に応じて違う玉や石が付いている。当時67歳で小柄な小林氏にとっては、つらい試練だったことがうかがえる。
両陛下にとって事情はもっと深刻だったようだ。日記には〈賢所御神楽。これで即位に伴う一連の儀式・祭礼はすべて終了した。両陛下も大変お疲れのことと思われる。特に皇后陛下が心配される。午前に親謁の儀のあと皇后陛下は貧血?で御気分悪くなられ〉(平成2年12月6日)とある。前回は、即位の礼と「大嘗祭」(平成2年11月22~23日)は10日しか間が置かれなかったが、政府は今回、新天皇、皇后の負担に配慮し、即位の礼を10月22日に前倒しし、約3週間空けることとなった。小林氏が指摘するような重い負担が、政府や宮内庁の関係者間で共通認識になったことが推察される。
「外交官としてバリバリの人。相当な決断」
平成皇室がスタートした時期は、慶賀と苦難が交錯した。小林氏は、外交官「小和田雅子さん」が皇太子妃(5月以降、皇后)として皇室入り(平成5年6月)されるまでや、秋篠宮(同、皇嗣〔こうし〕秋篠宮)の結婚(平成2年6月)についても日記に書き残している。一方で、美智子皇后がバッシング報道に見舞われている最中、倒れたこともあった(平成5年10月20日)。こうした「多事多難」を間近で見た小林氏の率直な思いや、新たに皇室に嫁いだ女性皇族の素顔の記述も興味深い。
平成5年1月6日の日記にはこうある。〈皇太子妃決まるの報道〉〈御本人が断ったということで立ち消えになっていた小和田雅子さん。外交官としてバリバリの人。相当な決断で別世界に入ることをきめたものと思われる〉〈父は次官の立場でもある。外交官の先輩から膝詰めで決断をせまられれば到底断わり切れないだろう。あたら英才を籠の鳥にしてしまうのはいかにも残念だが、皇太子の幸せのためには止むをえないのか〉
成婚は6月9日。〈皇太子結婚式〉〈直前になって雨があがり、沿道をうめた17万の人達を喜ばせた。過剰警備が目立ったが、少し混雑で怪我人が出た程度でさしたることもなく終った。妃殿下の洋装がよく似合った〉と書き残している。
雅子妃の心情に思いを致しながらも、一抹の不安ものぞかせている。雅子妃はその後、新たな皇位継承者を期待する周囲のプレッシャーにさらされたり、長女愛子さまの出産後に子育てと公務の両立に悩み長期の療養生活に入ったりした。鬼籍に入った小林氏はどんな思いでこの事態を見つめているだろうか。