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国と国民のWin-Winな関係性に見えるが……

 確かに、健康を維持することは国民自身にとっても極めて重要である。たとえ寿命が長くとも、寝たきりのような状況ではQOLは著しく低い。単純な寿命よりは体を動かすことができる健康寿命の方が重要であることはそのとおりだろう。そうした意味では、確かに国民にとっても「自分の努力で健康寿命を伸ばせる」という考え方は受け入れやすかった。

 そして、国民の健康寿命が伸びれば、国としても医療費の削減につながる。単純に考えれば国と国民のWin-Winな関係性であるかのように見える。

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 しかし、この厚生省の文書には、以下のような懸念が示されている。

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〈但し、疾病の発症には、「生活習慣要因」のみならず「遺伝要因」、「外部環境要因」など個人の責任に帰することのできない複数の要因が関与していることから、「病気になったのは個人の責任」といった疾患や患者に対する差別や偏見が生まれるおそれがあるという点に配慮する必要がある〉

「メタボリックシンドローム」は怠惰の象徴に

 生活習慣病の考え方は、確かに各自の努力を要請するものではあっても、その一方で個人の責任に帰すことができない様々な要因がありうる。

 決して望んで病気になりたい人はいないだろう。しかし、人は健康を望みながらも、様々な加齢以外の不可避な要因においても、病気になりうる。故に十分な配慮が必要だということを、この文書ではちゃんと提示しているのである。

 しかし残念ながら、その配慮は十分にされたとはとても言えない。

 成人病が生活習慣病となっただけではなく、かつては「恰幅が良い」や「貫禄がある」とも言われた体型は「メタボリックシンドローム」として、怠惰の象徴となった。ここでは太りやすい体質などの問題を無視している。

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 元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏が「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」と題したコラムを書いて騒ぎになった件は、まさに「努力だけではどうにもならない要因に対する配慮が十分でない社会」が至る末路を示したと言えるだろう。

 自己責任という言葉もまさに、様々な個人の責任に帰することのできない複数の要因を無視して、貧しい人や苦境に立った人を揶揄する言葉になってしまっている。

 令和の時代は、このような配慮なき自己責任論の過ちが周知され「自己責任から社会責任へ」と、まっとうに回帰する時代であってほしいと、私は切に思う。