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特集私が令和に語り継ぎたい「平成の名言」

「私もあなたの作品の一つです」“平成のベスト弔辞”を生んだタモリのワイルド居候伝説

2019/05/03

《赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私も、あなたの数多くの作品の一つです》

 平成20(2008)年8月7日、その5日前に亡くなったマンガ家・赤塚不二夫(享年72)の告別式で、タモリ(当時62歳)は恩人への弔辞をこのように結んだ。このとき、彼は紙を手に弔辞を読み上げたが、じつはそこには何も書かれていなかったことがあとでわかり、アドリブで語っていたのかと話題を呼ぶ。「私もあなたの作品の一つです」はこの年の新語・流行語大賞にもノミネートされている。

赤塚不二夫の葬儀・告別式で弔辞を述べるタモリ(2008年8月7日) ©共同通信社

「赤塚の服を勝手に着て、ベンツを乗り回し、月3万円をもらう」

 タモリは早稲田大学を中退後、郷里の福岡に戻ってサラリーマン生活を送っていた。だが、昭和50(1975)年、お笑いの道に進む決心をして再び上京する。その数年前には、福岡に公演で訪れたジャズミュージシャンの山下洋輔や中村誠一らと知り合い、一緒に遊ぶ仲になっていた。彼らが根城にしていた新宿のバー「ジャックの豆の木」の常連客たちにも、デタラメな外国語などを持ち芸とするタモリの噂が広がっていく。上京も、その芸を見たがった店の客らがカネを出し合い、東京までの新幹線の切符をタモリに送ったのが直接のきっかけだった。

「ジャックの豆の木」に現れるや、客たちのリクエストに応じて、アドリブで次々と芸を繰り出すタモリはたちまち人気者となる。多くの著名人も噂を聞きつけ、夜の新宿へ足を運んだ。赤塚不二夫もその一人だった。一目見て、すっかりタモリのことを気に入った赤塚は、こんな才能の持ち主を福岡に帰してはいけないと、目白にあったマンションの自室に彼を住まわせる。タモリが後年、「俺の人生のなかで一番楽しかった」と語った居候時代はこうして始まった。

こちらは1981年、インタビューに応えるタモリ

 その堂々たる居候ぶりは、いまでも語り草だ。部屋にあった赤塚の服を勝手に着て、本人からそれを指摘されても知らんぷり。一緒に遊びに行っても、帰りは赤塚はタクシーで、タモリは彼の所有するベンツに乗ってと別々だった。赤塚はそんなタモリに月に3万円ほど小遣いをやり、酒がないと聞けば、翌日にはハイネケンのビールを何ダースも届けた。たまに部屋へ自分の服などを取りに行っても、むしろ家主である彼のほうが遠慮して、「持って行っていいか?」といちいちタモリにうかがいを立てる始末。タモリは、赤塚はてっきり別にマンションを持っていて、そこに住んでいるものと思い込んでいたが、実際には彼は仕事場に寝泊まりしていた。