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特集私が令和に語り継ぎたい「平成の名言」

「私もあなたの作品の一つです」“平成のベスト弔辞”を生んだタモリのワイルド居候伝説

「私もあなたの作品の一つです」“平成のベスト弔辞”を生んだタモリのワイルド居候伝説

2019/05/03
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軽井沢で雪のなか、素っ裸で飛び出した2人

 タモリのテレビ初出演も、赤塚が企画した番組だった。それを見て、赤塚と旧知の仲だった黒柳徹子が「あの人は誰!?」とあわててテレビ局に電話をかけてきて、彼女の番組への出演が決まる。芸能界にデビューした当初は、それまでどおり赤塚や仲間たちと夜な夜な遊びまわっていたタモリだが、やがて仕事が徐々に入ってくるようになると、目白のマンションから引っ越していった。

『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』など数々の大ヒット作を生み出した赤塚不二夫 ©文藝春秋

 それでも、後年にいたっても、赤塚はたびたびタモリにさりげなく示唆を与えていたようだ。あるとき、「おまえ、自分のことだけ100%やればそれでいいと思っているだろう」と指摘されたことがあった。どういうことかと思って話を聞けば、「テレビには共演者がいるだろう? 共演者と触れ合うことで相手がどう変わるか、自分がどう変わるかが面白いんだよ。おまえはそれをやってない」というのだ。それからというもの、タモリは赤塚の言ったことを心がけているうちに、人と触れ合う仕事が多くなっていた。《なんだか、すべて赤塚さんに導かれて今があるようにも思えます》とは、赤塚の追悼文での彼の弁だ(※1)。

 赤塚不二夫とタモリは、師弟の関係ではないが、かといって単なる親友というのでもない。しいていうなら、一緒にいればとことんまで面白いことを追究する“同志”と呼ぶのがふさわしい。正月休みに軽井沢へ出かけたときには、「雪景色ばっかり見てても面白くないね」と、二人して雪のなかへ素っ裸で飛び出し、タモリがイグアナのモノマネをしたかと思えば、赤塚は木に登り、ムササビになったつもりで隣りの木へ飛び移ろうとしたところ、「ムサッ……」と言いかけたまま落下したという。

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1998年、赤塚不二夫の個展の際にトークイベントを行った2人

「あなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません」

 酒の席で生まれたギャグも少なくない。あるとき赤塚が「仮想葬儀」というギャグを提案し、友人代表の弔辞をタモリにやらせたことがあったという。2人と旧知の仲である演出家の髙平哲郎はこの話を踏まえ、現実の赤塚の葬儀でのタモリの弔辞もまた、彼ならではの「弔辞のパロディ」だったと書いている(※2)。事実、タモリは弔辞のなかで、赤塚はいま会場のどこかで見ているはずだとして、《「お前もお笑いやっているなら、弔辞で笑わせてみろ」と言っているに違いありません》と語っていた。

 弔辞の終わりがけ、タモリは《私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです》と断ったうえ、《しかし、今お礼を言わさせていただきます》と、冒頭にあげた言葉で結んだのだった。

 赤塚不二夫は生前、自分にまったく遠慮しなかった居候時代のタモリについて、《あれがなかったら、今のタモリはないんだよ。普通にペコペコするような奴だったら、こうはなってなかった》と語っていた(※3)。はたしてタモリの弔辞を聞いて泉下の赤塚は、照れくさがっただろうか。いや、きっと、彼一流のギャグだと満足したに違いない。

弔辞を読むタモリ。じつは手元の紙は真っ白だった ©共同通信社

※1 タモリ「これでいいのだ、赤塚不二夫」、『「文藝春秋」で読む戦後70年 第4巻 「9・11」後の世界と日本』文藝春秋
※2 髙平哲郎『大弔辞』扶桑社
※3 赤塚不二夫『これでいいのだ。――赤塚不二夫対談集』メディアファクトリー

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