平成の31年間は、ざっくり言ってしまえば「社会責任から自己責任へ」という時代であった。

 自己責任社会とは、良く言えば社会に依存しない、自立した人たちによる「努力が報われる社会」への転換であり、悪く言えば、成功者と脱落者を明確に区別することで「努力が報われたかのように見える社会」を演出するための舞台装置に過ぎない。

かつては「成人病」と呼ばれていた

 そもそも自己責任とは、各自が置かれた社会的状況、すなわちスタート地点がフラットである前提において、その後の収穫の多少を「努力」としてみなすことで、その責任を判別することを指す。ところが、実際にはすべての人のスタート地点は、親の権威権力や、生まれた土地、男か女か、イケメンかブサイクか、美人かブスかなど、有利不利がまったく異なっている。

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 故に現実的な自己責任論は、単に物事の前提を無視した、既得権益層にのみ有利なネオリベラリズムとして帰結せざるを得ない。

 こう書くと「自己責任論」の妥当性について論じるように思われるかもしれないが、それ以前に日本人に自己責任という概念を分かりやすく明確に示した言葉がある。それが今回論じる「生活習慣病」という言葉である。

「脳卒中、がん、心臓病」という40歳ごろから死亡率が高くなるこれらの病気は、かつては「成人病」と呼ばれ「大人になったら誰もがなって当たり前な病気」として認識されていた。

きっかけは厚生省がとりまとめた文書だった

 ところが1990年代後半に、成人病は「生活習慣病」という言葉に切り替わるのである。

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「自己責任」という言葉が社会に広がったのは、2004年のイラク人質事件の影響が強い。しかし、それより前に、自己責任の概念を国民に広め、その言葉を受け入れるに十分な下地を作り上げたのが「生活習慣病」という言葉であると、私は見ている。

 きっかけは1996年に当時の厚生省が取りまとめた「生活習慣に着目した疾病対策の基本的方向性について(意見具申)」である。

 この文書が提言しているのは、それまで「加齢」という不可避な要素によって引き起こされると考えられてきた成人病は、「生活習慣」という各自の努力、積み重ねによって改善可能な要素によって引き起こされる病気であると国民に認識させることで、予防対策を推進し医療費を効果的に使用するという、考え方の転換である。