平成のプロ野球史を振り返ったとき、どうしても触れなければならない人物がいる。

 巨人の親会社、読売新聞グループの最高権力者として君臨し続ける渡邉恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役兼主筆(92)の存在だ。

 昭和9年(1934年)に当時の読売新聞社の社長・正力松太郎の手により発足した大日本東京野球倶楽部は昭和10年(1935年)に東京巨人軍と改称。戦後の昭和22年(1947年)に現在の読売ジャイアンツとなって現在に至るが、その間に実質的にこのチームの頂点に君臨した人物が3人いる。チーム創設の父だった正力松太郎と正力の死後、読売新聞社長に就任しその意思を継いだ盟友の務臺光雄。そして務台の死によって名実ともにグループのトップに立った渡邉だった。

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渡邉恒雄氏 ©文藝春秋

 特にプロ野球が日本のトップ・オブ・スポーツに君臨していた昭和から、激動の時代に突入した平成時代は、様々な局面で渡辺が中心軸となって球界を動かす構図が作り上げられていく。あるときはプロ野球界選手会と組んでフリーエージェント制度の導入を推進し、一方ではドラフト制度の改革を掲げて一時的ではあったが逆指名制度の導入を実現したのも、渡邉主導の改革だった。

 そうしてその渡辺が当時の西武・堤義明オーナーと手を組み1リーグ制を目論んだのが、平成16年(2004年)に勃発したプロ野球再編問題だったのである。

発端は「オリックスと近鉄の合併」

 同年6月13日の日本経済新聞による「オリックスと近鉄が合併」というスクープを発端に、翌日には1リーグ制への移行が報じられるなど、選手やファンを蚊帳の外にした再編の奔流が球界を巻き込んだ。

 新聞紙上には連日、合併関連のニュースが流れ、6月末には堀江貴文社長(当時)が率いるライブドアが近鉄買収に名乗りを上げた。しかし各球団の理事による実行委員会ではなにも決定できず、その一方で選手への説明もないままにオーナーレベルで再編は着々と進んでいた。

 そんな中で世の中の空気を一変させたのが、渡邉の「たかが選手」発言だったのである。