そして皇太子さまの「人格否定」発言へ
1999年12月10日、朝日新聞が雅子妃の懐妊の兆候をスクープし、宮内庁は過熱報道の自粛を要請する。その後、12月30日に流産の手術を受けたと発表され、古川清東宮大夫らは懐妊が早期から大々的に報道されて、雅子妃に心労を与えたとしてマスメディアを批判した。また、皇太子も翌年の誕生日の記者会見で「そこに至る過程で医学的な診断が下る前の非常に不確かな段階で報道がなされ、個人のプライバシーの領域であるはずのこと、あるいは事実でないことが大々的に報道されたことは誠に遺憾であります」と述べ、雅子妃を守る姿勢を示した。
2001年12月1日には愛子内親王が誕生し、家庭的な皇太子一家が形作られるものと思われた。しかし雅子妃は次第に公務を休みがちになり、「適応障害」と診断され、長い療養生活に入ることになる。
そして皇太子は2004年5月の記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実」と述べ、大きな波紋を呼んだ。それは、キャリアを有する雅子妃が、皇室のなかで跡継ぎを生まなければならないというプレッシャーにさらされていたことを、白日の下にさらす結果ともなった。一方で、皇太子は「僕が一生全力でお守りします」という言葉と同じように、何があっても雅子妃を守るような発言を周囲にも相談なくしたのである。
近年、雅子妃の状態は安定し、公務を少しずつこなしている。新天皇と皇后になる二人はこれまでとはまた異なった家族像を示しつつ、新しい天皇制への道を歩もうとしているのではないか。