なぜ小和田雅子さんとの結婚が、待望の出来事だったのか
しかも、皇太子の結婚はなかなか決まらなかったという事実が、雅子さんとの結婚を祝福するムードをより高めた。昭和の末ごろから、週刊誌やワイドショーなどのマスメディアは、「お妃候補報道」を過熱して取り上げた。候補として報道された人々はメディアに追いかけられ、そして人々に消費されていった。そのなかに、小和田雅子さんもいた。そうした皇太子の「お妃候補報道」が展開されるなかで、1990年6月には文仁親王が川嶋紀子さんと結婚、秋篠宮家が創設される。先に弟が結婚する事態に、皇太子の結婚はより人々の心配を集めつつ、関心を高めていった。
そのような状況での小和田雅子さんとの結婚は、人々にとって待望の出来事であったと言ってもよいだろう。しかも、皇太子が雅子さんの懸念を和らげるように上記の言葉をプロポーズで述べたこと、それが雅子さんの心を打ったものとして報道されることで、人々には大きく歓迎されたのである。これによって、より新しい皇室になることが期待された。
「開かれた皇室」に対する批判
結婚後、皇太子夫妻としての公務が始まる。翌年には中東4カ国を訪問するなど、積極的に「皇室外交」を展開していった。まさに外務省勤務の雅子妃のキャリアを活かした公務のように思われた。
とはいえ、歓迎ばかりではなかった。皇太子が述べた「僕は」という表現に批判的な言説も存在していた。「公」を重視しなければならない将来の天皇が「私」を重視するのはいかがなものか、そうした考え方である。そして、「開かれた皇室」に対する批判は、1993年に美智子皇后バッシングとしてマスメディアで大きく取り上げられていく。それへの批判は、美智子皇后からの異例の反論と失声症という状況によって止むものの、平成の天皇制のあり方への批判はその後も伏在していた。