平成25(2013)年9月6日、宮崎駿監督は引退会見で「この世は生きるに値する」と語った。当時は日経新聞で働いていた、社会学者の鈴木涼美さんが振り返る。
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「この世に絶望するには十分」と思えた2013年
新聞の文化面の見出しが当日まで空欄になっているというのは結構珍しいことだった。2013年9月6日、文化部が待っていたのは、報道陣500人以上を集めたという宮崎駿が引退を告げる記者会見の原稿で、午後に始まった老監督の熱弁は2時間近くも続いているようだった。
私は熱心なジブリファンというわけではないけど、宮崎駿の主要監督作品の多くは観ていたし、高校3年生の受験生だった頃、予備校に行かずに渋谷で「千と千尋の神隠し」を観にいったこともある。ナウシカの漫画版は家に全巻揃っていた。ただ、私は彼がこれまでも引退を示唆するようなことを言っていたことも含めて、この日の引退会見をそんなに重要視していなかった。
重く受け止めていなかった理由は、きっとまた撤回されると思っただけというわけではない。2013年、東日本大震災の爪痕は色濃く残る一方、参院選では自民党が圧勝し、二大政党制の夢が潰えたように見えた。消費税の引き上げが決まり、年末には特定秘密保護法が連日の反対デモをものともせずに成立した。「倍返しだ!」でおなじみのドラマ「半沢直樹」が人気を呼び、ワイドショーではブラック企業に勤める会社員の就労形態が話題となり、ヘイトスピーチも流行語に連ねられた。藤圭子が突然亡くなり、團十郎も闘病の末この世を去った。
老いた文化人がこの世に絶望するには十分な年に思えた。そして、老人の感じる絶望というのは若い私にとっては退屈で理不尽なものだった。「山椒魚」だって、井伏自身に末尾を削除される前の方が好きだった。骨太な時代を生き抜いた者が、時代の変化を息苦しく感じても、文化の衰退を嘆いても、礼節が廃れていくのを嫌っても、私は私でその時代を生きていかなくてはいけない。押し寄せる自分の老いと時代の変化との板挟みになって拗ねてしまうよりは、自分の価値を突き通すくらいの方がまだ可愛げがあると思っていた。草をかき分けて、この時代に続く道を作ってきたのは彼らなのだから。