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 では、なぜ助詞が重要なのか。それは、日本語には中止法というレトリックがあるからだ。たとえば「まごころを君に」というフレーズがあったとして、そのあとに続く言葉は「贈ろう」だとか「届けたい」だとかいろいろ想像することができる。そして全部言い切らずにそれ以降を省略してしまっても、おおかたのニュアンスは伝わるだろう。それどころか最後まで全部言ってしまうよりも、よほど詩的でスタイリッシュなニュアンスを伝達することが可能である。このようなレトリックが中止法で、散文でも韻文でも多用される手法だ。ニュースの見出しにもこのレトリックはよくみられる。今ざっとヤフーニュースを覗いてみても、「住宅ローン減税 1年半延長へ」「雪かきで水路に転落死か」なんてのが見つかった。

 そしてこの中止法があるからこそ、日本語話者は助詞で終わる文章にさほど違和感を覚えない。「が」や「は」や「に」で文章が終わっていても、頭の中で勝手に続きを補完して読んでくれるのである。ということはだ、回文の場合、一文字目と最後の文字が同じなわけだから、助詞として使える文字から始めると作りやすくなるのだ。「が」「は」「に」「も」「へ」「と」「で」「か」「の」「だ」「ね」「よ」「ぞ」「さ」「や」。このあたりの文字から始めると、いっきに回文にしやすくなるのである。結構多いでしょ。「この文字で始まる」ということはイコール「この文字で終わる」ということを意味するのが回文なので、じゃあ発想を転換してしまって、「日本語はこの文字で終わりがち」という文字から逆算してしまうのである。もちろん大半の日本語は動詞や形容詞で終わるわけだけれど、助詞は一文字のものが多いので着脱が容易。ここは「だ」じゃなくて「さ」にしよう、なんてことが簡単に出来る。助詞を重用することが、回文のキーポイントなのである。

 そして僕の考えた回文にも、助詞で終える中止法を用いたものはたくさんある。

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牡蠣にあたった兄貴か(かきにあたったあにきか)
変化を拒みゴミ箱を缶へ(へんかをこばみごみばこをかんへ)
サウナ「かもめ湯」で夢も叶うさ(さうなかもめゆでゆめもかなうさ)
雑炊ぐいぐい吸うぞ(ぞうすいぐいぐいすうぞ)
眠たいが眠ると太る、胸が痛むね(ねむたいがねむるとふとるむねがいたむね)
断裂した記憶。やはり早く起きた。失恋だ。(だんれつしたきおくやはりはやくおきたしつれんだ)

 必ずしも助詞で終わることをあらかじめ意識していたものばかりではないけれど、「困ったら助詞から始めてみる」というワザはよく使っている。特に「さ」とか「ね」みたいな口語の終助詞が便利。アタッチメントみたいなものだし。

 しかし回文を考えてみればみるほど、日本語は断言を避ける言語なんだなと痛感するようになる。助詞でぶった切って最後まで言い切らないで、相手に解釈を委ねるようなことを平気でやる。たまに言い切ることがあっても、「よ」とか「さ」とか終助詞を付けて和らげたりする。和らげるというより曖昧に濁すといったほうがいいのかもしれない。「だ」だって、言い切りのかたちのように見えるけど、「である」よりはちょっと人間味がある気がする。そのことの良い悪いはここでは到底語り尽くせないけれど、少なくとも回文を作るうえではその日本語の特性は大いに役立っていますよとだけは言える。同時に、助詞たった一文字のわずかなニュアンスの違いが、日本語としての完成度を左右することもよくわかってきた。

 今までいろいろな言葉遊びを一人で暗く楽しんできたけれど、日本語の構造そのものと真剣に向き合えるようになるという点では、回文がダントツだった。だんだん、日本語が一個の完成された建築物みたいに見えてくる。最初にも書いたように僕は回文を自分の創作物だとは考えていない。隠されていたものを掘り起こす発掘者だと思っている。では、回文の作者とは誰なのか。それは、「言語」そのものに他ならない。地層のように折り重なった言語の構造の中に埋もれた隠れた規則性。それを見つけ出すのが、回文の何よりの楽しみなのだ。