「尊敬する人物は福沢諭吉である」
野口は1918年、南米エクアドルにおける黄熱病の流行を受け、ロックフェラー財団(ロックフェラー研究所とは独立した組織)の調査団に参加、翌年、レプトスピラ(細菌類スピロヘータ科の一属)を黄熱病の病原体として発表していた。だが、1927年夏、ロックフェラー財団が西アフリカのナイジェリアに設置した実験所で、イギリス人研究者エイドリアン・ストークスらが、黄熱病患者から採取した物質でサルを感染させることに成功、ここから黄熱病が細菌よりも微小な病原体(ウイルス)によるものであることが確認される。
それでもレプトスピラが黄熱病の原因だと信じていた野口は、自説を証明すべく1927年11月、ロックフェラー財団の実験所の出張所のあるアクラに赴いたのだった。その直前の9月には、先述の実験に成功したストークスが黄熱病で亡くなっていた。野口はストークスに続く殉職者となり、野口を検死解剖した実験所の所長のW.A.ヤングもまた黄熱病のため、直後の5月29日に死亡している。
思うような成果が得られないまま、病床に就いた野口は、亡くなる8日前、見舞いに訪れたヤングに「君は大丈夫か?」と訊ねた。ヤングが「大丈夫です」と答えると、野口は「どうもぼくにはわからない」とつぶやいたという。それが彼の最後の言葉となった(※5)。
野口は生前、アメリカを訪れた若い日本人に、自分の尊敬する人物は福沢諭吉であると話したことがあったという。福沢は、北里柴三郎が伝染病研究所を設置するにあたり出資している。科学史家の中山茂はここから、《彼は北里のスポンサーになって伝染病研究所をつくった福沢の功績を買い、自分にも福沢のような学問の理解者が日本にあらわれて研究所を作って日本によびもどしてくれたら、という直接的な願望を持ったであろう》と推察する(※5)。もし、野口が長命を保ったとして、日本に戻り、北里のように母国で多くの後身を育てる将来もあったのだろうか。
※1 星亮一『野口英世 波乱の生涯』(三修社)
※2 長木大三『北里柴三郎とその一門』(慶應通信)
※3 馬場錬成『ノーベル賞の100年 自然科学三賞でたどる科学史[増補版]』(中公新書)
※4 アーリング・ノルビ『ノーベル賞はこうして決まる 選考者が語る自然科学三賞の真実』(千葉喜久枝訳、創元社)
※5 中山茂『野口英世』(岩波書店・同時代ライブラリー)