日本を飛び出した弟子を讃えた北里
野口は横浜で、入港した船からペストらしき患者を発見した。それが評価され、清国でペストが発生すると、伝染病研究所が派遣した医師団への参加を北里から命じられる。この清国滞在中、野口は欧米人医師団に伍して働き、国際人として生きていく自信をつけた。派遣団に参加した時点ですでに検疫所をやめていた彼は、帰国しても伝染病研究所に戻ることなく、渡米の準備を進め、翌1900年には日本を離れた。アメリカに着くとすぐ、研究所時代に会ったフレクスナー(当時ペ
それから15年後の1915年、フレクスナーが研究部長となったロックフェラー医学研究所で数々の業績をあげていた野口は、学士院賞恩賜賞の受賞をきっかけに久々に帰国する。そのとき北里は、《野口君が今日あるのは朋友相排し圧迫と猜疑をもって迫害を加える日本と違って、才能をのばす大研究所で仕事ができたからである》と、学閥が支配する日本を飛び出して成功したかつての弟子を讃えた(※2)。北里は、母校である東京帝大から長らく冷遇され、1914年には
なぜ野口はノーベル賞を獲れなかったのか
野口英世は、ノーベル生理学医学賞にもたびたびノミネートされている。初めて同賞候補として推薦リストに名前が出たのは1913年、以来9回にわたって、のべ24人の世界の第一級の研究者から推薦を受けたことがわかっている。1914年、15年、20年には最終選考にまで残り、とくに19
ただし、スウェーデンのウイルス学者で、1973年から約20年間ノーベル生理学医学賞の選考にも携わったアーリング・ノルビがノーベル文書館所蔵の公開記録文書を調べたところ、ノーベル賞の選考委員は、野口について精査の末、賞を授与しなかったことがわかったという。ノルビによれば、1914年と1915年には、カロリンスカ研究所の病理学教授カール・スンドベリが、フレクスナーと野口両者の研究を詳細に調査して検討したものの、賞にふさわしいとは見なされなかった。さらに10年後の1925年、野口が8人から推薦を受けたため、ノーベル委員会は法医学教授グンナル・ヘドレンに新たに徹底的な調査を行わせたが、《幸いなことにヘドレンもノーベル委員会も、自分の仮説を熱心に説く野口に惑わされなかった》という(※4)。
そもそも野口の研究には、梅毒スピロヘータ(梅毒の病原体となる細菌)の脳内存在の確認など現在も大きな業績として認められるものがある一方で、実験で発見したものには追試できないことがのちに発覚し、否定されたものも少なくない。彼が罹患して命を落とすことになった黄熱病の研究もその一つである。