1928年5月21日、西アフリカのアクラ(現在のガーナの首都)で、アメリカのロックフェラー医学研究所から当地に赴任していた細菌学者の野口英世が51歳で死去した。いまから91年前のきょうのできごとである。野口はアフリカに黄熱病の研究のため赴いたが、自らも感染して命を落とした。

北里の伝染病研究所に在籍していた野口

 野口英世は2004年より千円札にその肖像が使われてきた。先ごろ、現行紙幣のデザインが2024年をめどに一新されることが発表され、千円札の肖像は野口から、同じく細菌学者の北里柴三郎に変更されることになった。野口は20代前半の数年間、北里が所長を務めていた伝染病研究所に在籍している。それだけに今回の千円札の肖像変更は、弟子から師匠へのバトンタッチともいえる。

1928年の5月21日に英領ゴールド・コースト(現ガーナ)で黄熱病のため死去した野口英世 ©AFLO

 野口は1898年に順天堂医院から伝染病研究所に移り、見習格という下級助手の身分ながら13円もの破格の月給を得ることになった(※1)。翌99年にジョンズ・ホプキンス大学の病理学教授サイモン・フレクスナーが来日したときには、北里から通訳・案内役を任されている。

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 とはいえ、伝染病研究所は野口にとってけっして居心地のいい場所ではなかったようだ。福島県の貧しい農家に生まれ育った彼は、大学や医学校で学ぶことはかなわず、高等小学校卒業後、地元の医院などで修業しながら苦学して開業医試験に合格した。これに対し、伝染病研究所の所員の多くは東京帝国大学出身だった。そのため、学閥の壁に阻まれることもしばしばだった。さらにフレクスナー来日の直後には、野口が図書室の高価な医学書を友人に貸したところ売却されるという事件が発覚する。このため所内では、浪費家の野口が金に困って自分で売ったのではないかとの噂も立つ。濡れ衣だが、野口が日頃の不満から遊蕩癖があったのは事実だった。すっかり仕事を干された野口を、北里は横浜の海港検疫所に出向させる。