日本の紙幣が20年ぶりに刷新されることになった。

新1000円札の表のデザインには「日本近代医学の父」と讃えられる、北里柴三郎(1853-1931)。世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功し、血清療法を開発した。ペスト菌も発見。生涯を予防医学の発展に尽くし、第1回ノーベル生理学・医学賞の有力候補に挙げられた人物だ。

(出典:文藝春秋2014年1月号)

 語り手の孫の北里一郎氏(81)は、明治製菓の社長(のちに最高顧問)を務め、現在は学校法人北里研究所の相談役。

「雷おやじ」がニックネームだった

 まず触れるべきは、「ドンネル」というあだ名でしょうね。ドイツ語で「雷おやじ」(笑)。

 いわれは、規律に厳しかったことにあるそうです。同僚でも弟子でもたるんだヤツが大嫌いで、徹底的に雷を落とした。しかし、人前で怒ることは絶対に避けた。相手がやる気をなくしては意味がない、という配慮があったからです。そうやって任せたあとは、遠くから眺めるだけで口出ししなかったので、弟子たちは研究に集中しました。

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 好んで揮毫した言葉は「任人勿疑 疑勿任人(人を任ずるに疑うなかれ、疑って人を任ずるなかれ)」。そうした人間味を含めて、「雷おやじ」のニックネームがついたようです。

©時事通信社

 阿蘇での子供時代は、負けず嫌いの暴れん坊だったとか。18歳で医学を志す道筋を与えた熊本医学校のオランダ人医師マンスフェルト、ドイツ留学時代に師事したコッホ、そして福澤諭吉が、柴三郎の三大恩人です。出会う人に恵まれたし、出会った人に対する報恩の精神が、柴三郎は人一倍強かったといえます。

「医者の使命は病気を予防すること」と考えていた柴三郎ですが、ドイツから帰国後、伝染病の研究をする機関がなかった。そのとき、私財を投じて面倒をみたのが、福澤先生でした。おかげでできたのが、伝染病研究所です。翌年、この伝染病研究所が移転を計画すると、地元で反対運動が起こりました。そのときも福澤先生は自ら住民を説得し、研究所の隣に次男一家を住まわせて、安全性を示したのです。

 大隈重信内閣が、伝染病研究所の所管を内務省から文部省に変えると閣議決定したとき、事前に相談がなく承服できなかった柴三郎は、辞表を出します。そのときの弁は、「福澤先生の教えによるところの独立自尊はここにあると考えたからである。学問の独立を尊重する以上は説をまげてまでも研究所に留まることはないと決心した」。お弟子さんや職員も揃って辞職を申し出たそうですから、「ドンネル」は慕われていたんでしょう(笑)。そして、北里研究所の設立に至ったわけです。