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新紙幣に採用 北里柴三郎のあだ名は「雷おやじ」だった

孫の北里一郎氏が語る 1万円札・福沢諭吉との知られざる「縁」

source : 文藝春秋 2014年1月号

genre : ニュース, 社会, 教育

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庭で飼っていた鳥も解剖した


 福澤先生が亡くなったときの弔辞は、
〔余は衷心、実に師父を喪いたるの感あり。然れども先生の偉業は依然として我が眼前に存し、先生の遺訓は歴然として余が脳裏にあり。余不敏と言えどもまたその偉業を守りその遺訓を体し切磋研鑽以て、万一の報恩を期せんとす。嗚呼悲哉〕

 慶應の医学部設立に尽力し、無給で初代学部長に就いたのも、報恩の精神からでした。コッホ博士が亡くなったときは、コッホ神社を作って祀りました。いまはコッホ・北里神社として、北里研究所の敷地内に建っています。

 晩年の柴三郎は、自宅の庭一面に鳥小屋を作り、孔雀をはじめ、鳥をたくさん飼って可愛がっていました。死んだ鳥を見つけると、解剖して死因を追究せずにいられなかったというのが、医学者らしい(笑)。鳥のほうも柴三郎になついていて、毎朝7時に庭へ出ていくと、いっせいに鳴いて喜んだとか。しかしその鳴き声が近所迷惑だとわかると、上野動物園に掛け合って、すべて寄付したということです。

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新1000円札のデザイン(表)(財務省より)


 関東大震災のときは70歳。柴三郎は次男の善次郎、つまり私の親父に、入院していた夫人の乕(とら)さんを病院から連れてくるように命じます。ところが交通機関は乱れているし、あちこち火は出ているしで、なかなか帰って来ない。柴三郎は門前に出て行ったり来たりしていたといいますから、性格が出たんでしょう(笑)。ようやく帰って来ると、食事用の脚の長いテーブルの下に敷いておいた布団に、さっそく祖母を寝かせた。余震に備えた心配りです。親父にはひと言、「遅い!」と雷を落としたそうです(笑)。

「じいさんに比べられたらかなわん」

 好んだ言葉は「終始一貫」。孫の私も、これを座右の銘としています。

 私は下から慶應でしたが、「じいさんに比べられたらかなわん」と思ったので大学は工学部へ行き(笑)、卒業論文は医薬品に関するものでした。就職は、ペニシリンの製造・販売をしていた明治製菓を選びました。柴三郎から実学の精神を受け継ぎ、実業界に身を置くことにしたのです。

 柴三郎がコッホ博士から教えられたのは、「学者は、高尚な研究で自己満足してはいけない。これを実際に応用して社会に貢献することこそ、本分である」ということ。

新1000円札のデザイン(裏)(財務省より)

 福澤先生から教えられた「独立不羈(ふき)」の精神は、「自分でモノを考えて言動に移し、自分で責任をもつ」ということです。柴三郎はそこへ、「奉公人根性なきこと」と付け加えました。私の解釈では、「上司の指示を聞くだけで、自分でやりたい仕事があっても、失敗したら減点されて出世のさまたげになると思って、やらない。そんな根性ではダメだ」という意味です。

 明治製菓の社長時代は新入社員に対する訓示で、いまは北里大学と慶應義塾大学の新入生への特別講義で、私は柴三郎の精神を伝えています。

新紙幣に採用 北里柴三郎のあだ名は「雷おやじ」だった

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