この記事は、そうした人――つまり、校則を変えたり破ったりする人を「わがまま」だと見なしがちな人――に対して「こういう考え方もあるよ」というだけの記事だ。だから、これを読んで、「私も立ち上がろう」と思わなくても別に構わない。
ただ、校則を変えようと頑張っている人や、先生の目をごまかして楽しくやろうとする人に対して「わがまま」と感じるのを少しだけ待ってほしいと思って、この記事を書いている。
黒髪のくせに「地毛証明書出せばよかったわ~」というやつの何が悪いのか
ここからは、過去の私に問いかける形で進めてみたい。
まず、なぜ「みんな我慢しているんだから我慢しろ」という必要があるのだろうか。「地毛証明書出せばよかったわ~」という陽キャに対し、イキり乙、と思うのも理解できる。
しかし、過去の私に重ねて言いたいのだが、イキり陽キャの自由を制限することが、自分の自由を拡大することには決してならない。まあ「メシウマ」くらいにはなるかもしれないが、その「メシウマ」は長い目で見ると自分に損をもたらすかもしれない。
学校だけではなくあなたまでもが「みんな従ってるんだから黙って従え」といった結果、髪型をめぐる規制のほかにも、理不尽な校則はどんどんあなたたちを締め付けてくるかもしれない。「トラブルのもとになるから、お金を持参するな」とか「授業に関係ない本を読むな」とか。そうすれば、あなたが謳歌している自由も侵されてしまうかもしれない。
あなたが染髪に関心がないなら、無理に校則を変えようと働きかける必要はもちろんない。友達から署名を持ちかけられることがあっても、同調することに抵抗があるなら「考えておく」とか言っておけばいい。ただ、あなたの妨げにならない限り、染髪したがっている人の自由を妨げる必要はないと思う。
それよりはいま、自分らしく生きられない人を救うほうが重要ではないのか
もうひとつ、あなたに考えて欲しいことがある。それは、あなたの想像する「『本当の』茶髪や金髪の人」について、そして「ふつうではない」ということについてだ。
地毛証明書の存在は、黒色でない髪が「例外」である、つまり「ふつう」ではない、という認識から出発している。しかし、そもそも「ふつう」ってなんなのだろうか。ここで、「ブラック校則をなくそう!」プロジェクトが提示した調査結果を見て欲しい。地毛が茶髪・金髪の人は10%に近いという。あなたが当初思っていたよりも多いのではないか。
さらに言えば、「本当の」茶髪や金髪の人が、親の印鑑やサインを得てまで学校に証明するプロセスがどうして必要なのだろうか。そのこと自体、生まれつき茶髪や金髪であることを「ふつうではないもの」として自覚させることに繋がってしまう。
例えばあなただって「AB型証明書」とか「左きき証明書」とか出させられたら、否が応でも自分が「ふつうではない」と自覚せざるを得ない。そして、そのことをコンプレックスに感じて苦しむだろう。「決まり」や「証明」には、何かそういう「ふつう幻想」を作り出す力がある。