もう15年も前の話になるが、高校時代に、今で言う「イキってる」クラスの男子が、「地毛証明書を出しておけばよかった。そうすれば髪を染めて高校に来れるのに」とぼやいていた。地毛証明書とは、髪の毛が黒色でない生徒がそれを学校側に証明するための書類である。「地毛証明」なのだから、染髪したい生徒が出す書類ではない。
いわゆる陰キャである私は「ああ、こういうバカがいるから『本当の』茶髪や金髪の子が割を食うのか。だから地毛証明書が必要になるんだろうな」と率直に思ったし、なんなら「みんな我慢してるんだから我慢しろよ」と、彼の自由が制約されることを腹の中で喜びすらしたかもしれない。
しかし、なぜ私は、彼に対して「染髪する自由」があると考えなかったのだろうか。彼が染髪したとして、私、あるいは「本当の」茶髪や金髪の子になにか不利益があったというのか。なぜ、校則ないしそれを押し付ける学校のほうが問題だ、という考えに思い至らなかったのか。
近年、靴下の丈や下着の色、髪の色などをめぐる、理不尽な中学校・高校の校則として「ブラック校則」が話題になっている。こうした「ブラック校則」に対して「#この髪どうしてダメですか」といったハッシュタグや、「校則一揆」を奨励する活動も盛り上がっている。ニュースサイトやウェブの記事を読んで、立ち上がる生徒さんのすがたに背中を押された人も多いだろう。
「校則は守るもの」という強い通念
しかし、と私は思う。そもそも、かつての私のように、校則にそこまで不満を持っていない人、「決まりなんだから従うべき」だと考えている人も多いのではないか。むしろ、校則に異議申し立てをしようとする人に対して「わがまま」だ、校則の隙間を縫って自由を謳歌しようとする人々に対して「いいから黙って我慢しろよ」と思う人もそれなりにいるのではないか。
私は、社会をとりまく制度やシステムに対して理不尽と感じ、抗議や提案をするために声を上げる人々を研究する立場である。このような活動は一般に「社会運動」というが、とくに名前が重要なわけではないので、ここでは忘れてもらっても構わない。
ただ、人々が理不尽に感じることは、現代社会においてかなりばらばらだ。だからこそ、誰かが自分の関心にもとづいて声を上げると、人びとはどうしても「わがまま」と感じやすい。
校則に対する抗議も社会運動といえるが、不満をあらわす対象が校則であればなおさら、かつての私のように「わがまま」だと感じる人々は多いだろう。「子どもは学校の決まりを守るもの」という通念はとても強いからだ。