それでも伊藤光はウチの子だ。良縁があり横浜へと嫁いで行ったのは去年の夏(※このコラムではあくまで良縁にとどめ、ここでトレードのいきさつや賛否は議論しないものとする。悪しからず)。ウチでは色々と苦労をさせてしまったが、今は横浜で幸せに暮らしているらしい。横浜での活躍は時折耳にしている。が、まさかその横浜に行ったウチの子から、年に数度しかない痛烈なホームランに猛打賞、あげくヒーローインタビューまで目の前で見せつけられる事になるとは予想していなかった。それも絶対的に自信を持って登板した現在の我が家のエース・山本由伸からである。
その伊藤光が我が家にやってきたのは2007年。遡る事15年ほど前に松井秀喜(元ニューヨーク・ヤンキース)への連続敬遠で日本中に物議を醸し出した明徳義塾の出身で、強肩で俊足好打に加えて「超」の付くイケメンと、まさに将来のスター候補としての入団だった。自分も歳を取ったのか、彼が我が家にやって来た日の事をつい最近の事のように思い出す。グレッグ・ラロッカにタフィ・ローズ、アレックス・カブレラが同時に活躍していた時代であっただろうか。当時の我が家はと言うと、上の兄達4人、的山哲也に日高剛、前田大輔と鈴木郁洋が熾烈な正捕手争いを演じていた捕手戦国時代の真っ只中、そんな中での未来の正捕手候補の入団は正にバファローズの未来を大きく左右したとも言えるだろう。
泣き虫だったウチの子
元々は体が弱く泣き虫なウチの子だった。ルーキーイヤーから1軍初出場を果たすなど大器の片鱗を見せながらも椎間板ヘルニアの発症、すぐにチームを離れリハビリの日々。相当に苦しく不安の日々を過ごしたのだろう、2010年のウエスタン・リーグ復帰後の初安打では1塁上で号泣していたと当時の本屋敷俊介コーチのブログは綴っている。(「試合後に『泣いてすみません』と言って笑顔で練習に向かった伊藤の姿に救われた気がしました。完治目指して頑張ろうな。」があまりに感動的な本屋敷コーチの過去のブログはコチラ)
そして我が家に「ヒカル待望論」が高まるのは翌2011年。3月11日に日本中を悲しみが襲った年、新井貴浩プロ野球選手会会長(当時は阪神タイガース)がプロ野球開幕の時期を巡ってセントラル・リーグとの交渉に奔走した年だった。開幕戦からスタメンマスクを被ると、金子千尋(金子弌大)、西勇輝、寺原隼人らとバッテリーを組みいよいよ正捕手への道を歩み出した。それでもクロスプレー中の骨折や、翌年はバッターのフォロースルーによるバットの頭部直撃など、多くの怪我が彼を襲った。度々の1軍離脱。それでも満身創痍で体を張って投手を、そしてチームの危機を幾度も救って来た彼の姿は、バファローズの捕手戦国時代の終焉を知らせようとしていたのかも知れない。2013年にはついに137試合の出場、キャリアハイとなる.285の打率を残しオールスターにも出場した。遂に彼は、金子千尋(金子弌大)やT-岡田と並ぶ自慢の我が家の子に成長したのだ。
続くは誰もが記憶に新しい2014年。「ゴールデングラブ賞」「ベストナイン」「最優秀バッテリー」とあまりに華々しい活躍を見せたウチの子のシーズンがあんな形で終わる事になるなんて誰が予想しただろう。そもそもプロ野球選手がグラウンドで涙を見せる機会はほとんど無い。しかしウチの子は違っていた。ヘルニアからの復帰戦で涙し、親友・西勇輝のノーヒットノーランに涙し、そしてこの2014シーズンも彼の涙で幕を降ろす事となった。ホークスとの頂上決戦10.02ヤフオクドーム。優勝を決めたホークス・松田宣浩のサヨナラ打の直後、全てが事切れたようにグラウンドで泣き崩れたウチの子。ヘルニアの手術以降に彼を襲った足の痺れと、戦いで負った幾多の怪我とも戦いながら、リーグ優勝を夢見てひたすら歩を進めた彼に唯一残ったもの、それは涙だけだったのかも知れない。