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「ヨシオカ、あの試合最高だったな」……大事なファイターズ応援仲間へ、別れの言葉

文春野球コラム ペナントレース2019

 僕の公式ツイッターが先月下旬、まったく動かなくなった。芸能人でもないくせに、僕みたいな単なるライターが公式アカウントを持つなんて本来おかしなことだ。大概の友人知人は、物書きも演劇関係も、そんなことは自分でやっている。まぁ、簡単に言うと面倒なのだった。面倒くさがりでSNSに手を出さなかった。ところが一昨年、えのきど公式ツイッターが発足してしまった。これは9割がた「文春野球コラムペナントレース」のために始めたのだ。

 文春オンラインの鬼っ子というか番外地というか。何か「文春砲」的な貢献は一切しないんだけど、まぁ楽しそうだから大目に見といてやるか的な立ち位置で「文春野球コラムペナントレース」はスタートした。文系野球バカの巣窟だ。日ハム担当バカには僕が選ばれた。僕は「えのきども日ハムさえなかったらなぁ……」と言われた男だ。新潮社の鈴木力さんに小説書けといわれて野球が忙しくて書かなかった男だ。もちろん文春野球は喜々として書いていた。最初のシーズンは「12球団をそれぞれ1人のライターが書く」方式だったから、毎週書いたっていいのだ。そんなのいくらだって書ける。

 だけど意外に得票というかHIT数が伸びないのだった。僕は伸びなくても(自分で書いて面白いんだから)ぜんぜん気にしてなかった。が、「これじゃダメですよ。僕が広報をします」と見るに見かねて申し出た奴がいた。フリーのラジオディレクター、吉岡信洋さんだ。他人行儀だから普段通り「ヨシオカ」と呼ばせてもらう。ヨシオカがえのきど公式ツイッターの「中の人」をやることになった。

 それから僕の文春野球コラムは少しずつ定着していき、2年目はチーム制になったおかげもあって「(コラムHIT数での)パ・リーグ優勝」を果たす。僕は完全におんぶに抱っこだ。なーんもしなくても告知は勝手に調べてやってくれる。たまにつぶやきたいときはヨシオカのLINEに「(えのきど)ガーン! 岡移籍……」などとメッセージを送ればいい。僕は完全にノータッチ。アカウント取得のメールアドレスも電話番号もパスワードも一切知らない。

ピタッと止まった公式ツイッターの更新

 そのえのきど公式ツイッターが5月18日、ピタッと止まった。斉藤こずゑさんのコラム「ファイターズ田中賢介、20年目のラストイヤー “現役最後の……”を噛みしめて」(同日アップ)のRT連打が最後だ。僕は「?」という感じだ。だけど、それがたまたま土日だった。考えたらヨシオカは1円にもならないことをやっているのだ。たまにサボってくれたほうがいい。ひょっとすると風邪ひいて熱でも出したかな。

 頭のどこかに「?」が点灯したままだったけど、僕は深く考えなかった。週明け、LINEしてみよう。来週は文春野球の登板日があるから18日の熊本の試合のことを書くんだ。アンブレラハルキ。きっとヨシオカ大喜びするぞ。このネタ、ヨシオカのツボっぽいもんなー。あいつは北海道旭川市の出身だから地方球場の空気感がわかるんだよ。

 ところが翌日もヨシオカと連絡が取れなかった。LINEは既読にならず、電話は留守電のままだった。友人の北尾トロさんに相談した。トロさんと僕は2011年から「レポTV」というユースト(のちにユーチューブ)のサブカル番組を始めて、そのスタッフ募集の呼びかけに手を挙げてくれたのがヨシオカだった。番組収録は週1、西荻にあった北尾トロ事務所(当時)でやってた。だから帰りはいつも終電近くの中央線だ。電車でよくHBCラジオの話をしてくれた。ヨシオカはいつもradikoで「HBCファイターズナイター」や「ファイターズDEナイト!!」を聴いていた。

「こっちも連絡ないよ。FB、ツイッターも投稿ない」
「トロさんにも連絡ないかー」
「心配になってきた」
「ゴールデンウィークに旭川に帰るときも、連絡つかなくなりますからってわざわざ知らせてきてたんだよ。こんな状態おかしいよ」
「やな予感するなぁ」
「明日、ヨシオカの会社に電話してみる。何か事情知ってるかもしれないし」
「それしかないね。わかったらすぐ知らせて」

 朝10時まで待って、ヨシオカが契約で働いてたラジオ制作会社に電話した。会社にも月曜から出てきてないそうだった。で、何とたった今、友達が川崎市のアパートへ見に行ってくれてるという。何かわかったら連絡してもらうように頼んだ。あぁ、ヨシオカ、道ならぬ恋でもして駆け落ちしててくれ。