「川崎と練馬の事件の当事者は、かつての僕と同じ」
「俺が死ぬくらいなら殺してやる、と本気で思いました。凶器を買って、待ち伏せして、たくさんの人を巻き込んでやる、と。いま思うと意味不明な思考回路ですよね。でも当時は、とても妥当な考えに思えた。
僕はひきこもりではありませんでしたが、川崎と練馬の事件の当事者は、かつての僕と同じではないか。そう思って今回、自分の体験をお話ししようと思いました」
当時の中村氏は他人の言動に対し、すぐにカッとなることも多く、時には自宅の家具を破壊するなど、暴力に訴えることもあった。なぜそうなってしまうのか長らくわからなかったというが、「いま冷静に考えると、私の生育環境が大きく影響しているのだと思います」という。
「父は会社員で母親は専業主婦という一見、普通の家庭に生まれました。しかし、家の中では、父が母に暴力を振るうのが当たり前だったのです。まだ私が2、3歳の頃から、それはとても強く記憶として心に残っている。父が何度も母を張り倒し、母は包丁を持ち出して自殺を図ろうとしたこともあった。そのうち、父の暴力の矛先は私にも向くようになり、母からも暴力を振るわれるようになりました。暴言や威圧、人格否定も日常でした。穏やかな時間もありましたが、いつ暴力をふるわれるかわからないので、家のなかでは常に緊張していました」
ちょっくら、ぼくが以前「マジで通り魔やるか」って決意しかかってやめた時の話でもしましょうか
— 中村カズノリ🍄 (@nkmr_kznr) 2019年5月28日
「被害者と加害者はいつでも逆転する」
親の暴力に怯える日々のなかで、中村氏の心には次第に加害者の”芽”が育っていった。
「暴力に耐えかねて、ある日、私は反撃に出たのです。中学2年生のときだったと思います。初めて父を殴った。しかし、まだ小さい子供が大きな大人に勝てるはずもなく、激昂した父に顔が腫れるまで殴られました。が、あのときこそ、僕が被害者から加害者に転換した瞬間だったと思います」
練馬の事件で殺害された熊澤英一郎さんもツイッターに《中2の時、初めて愚母を殴り倒した時の快感は今でも覚えている》と投稿している。
中村氏は「被害者と加害者はいつでも逆転する」と述べる。
「僕が家庭で学んだのは、暴力や脅し、親に逆らってはいけないという『家での役割』を重要視した人間関係だけです。許し、許される関係も、安心できる関係も知りませんでした。だから、相手と体力が逆転するタイミングで、被害者と加害者が入れ替わった。中2のときにはかなわなかったけれど、高校になったら父に力で勝るようになりました。ですが、それまで受けた傷が治った訳ではありません」
中村氏はその後、長い間、自分の暴力衝動に思い悩むことになった。