日本人を巻き込むロジック
今年は南京事件の発生から80年目にあたる。
60年目、70年目もそうだったが、今年も、1月早々にアパホテルの騒動が起き、7月(盧溝橋事件の発生月)や12月(南京事件の発生月)に向けてますます過熱しそうな気配である。
それにしても、南京事件をめぐる議論はなぜいつもこんなに揉めるのか。
その一因は、南京事件が、日本人全員をひとしく歴史の当事者にすり替え、巻き込んでしまう点にある。
「日本人としての責任はどうする」「日本人として反論しなくていいのか」。こういわれると、なかなか冷静でいられないし、どうしても身構えてしまう。これは歴史問題全般にいえることだが、残虐行為が伝えられる南京事件はことのほか感情を逆なでする。この手のロジックから逃れるのは容易ではない。
当事者だと思ってしまうと、利害を考えざるをえないし、政治的な「結論ありき」「数字ありき」の議論さえ真剣に参照されうる。たとえそれが「犠牲者数は30万人超か、さもなくばゼロ」というレベルのものであっても、である。
かくて思考は硬直し、論理はワンパターン化し、型通りの議論が空回りする。
広がる「歴史戦」の世界観
近年叫ばれる「歴史戦」は、この傾向に拍車をかけた。
南京事件は中国政府の「反日プロパガンダ」であり、日本人はこれに反撃しなければいけないし、そうしなければ国益を損なう、というのだ。
「歴史戦」という言葉はたいへんなインパクトがある。いまは「戦争」中だ。お前はどちらの側なのか。お前はなぜ戦わないのか。そう強烈に迫ってくるからである。勘違いして(日本政府は南京事件の発生を認めているのに)「歴史戦」の戦士になって情報発信をはじめてしまうひとが出てくるのも頷ける。
この世界観の下では、日本軍の記録や日記などを地道に調べている研究者さえ、一歩間違えると、「敵」に与する「反日」「左翼」とのレッテルを貼られて、個人攻撃に遭いかねない。
敵か味方か。
一個の歴史的事件をめぐって、そんな殺伐とした空間が広がりつつある。
「思想戦」の苦い過去
だが、ここで、昭和戦前期に行われた「思想戦」を思い出さずにはおれない。当時の日本でも「思想戦」という言葉が使われ、中国の「抗日宣伝」などに対抗しなければならないと盛んに喧伝されていたからだ。
学問の中立性も、同時に「教学刷新」の掛け声のもとに否定された。われわれは、普遍的な世界人ではなく、具体的な歴史人であり、国民である。それゆえ、われわれは、日本の利益のために学問をしなければならないのだと(『国体の本義』『臣民の道』)。
中立客観的な傍観者はそこでは許されなかった。「敵」とみなされた学者は、その地位を追われ、個人攻撃にさらされた。
こうした「思想戦」は、言論や報道の自由を損ない、学問の停滞を招き、奇矯な自国中心の思想を広めるだけに終わった。この国における、苦い歴史のひとつだ。
クールダウンするための思考実験を
「思想戦」の失敗は、ひとつの反面教師になろう。
われわれはたしかに歴史的な存在であり、所属する共同体の責任や歴史を免れない。ただ、その一方で、われわれは普遍的な存在でもあり、所属や立場を横において様々な思考実験を行い、抽象的な思考を巡らすこともできる。
南京事件に関しては、とりわけ後者でクールダウンすることが欠かせない。具体的には、こう考えてみてはどうだろうか。
「南京事件の犠牲者数がゼロ人だろうが、30万人だろうが、あるいはそれ以上、以下だろうが、正直わたしには直接関係ないし、こだわりもない。それより、事実はどうだったのか。そこだけが知りたい」と。
もちろん、これは悪しき相対主義の勧めではない。南京事件は単なる空虚な記号ではない。ただ、過熱した議論をリセットし、適切に距離を取るための思考実験は必要だ。「お前は当事者だ。ただちに旗幟を鮮明にせよ」だけでは、われわれは疲れはててしまう。
中国政府に引きずられてはならない
なお、仮に中国政府が南京事件を政治的に利用しているとしても、なにもかも同じレベルに降りておつきあいする必要はない。
「歴史戦」に熱中するあまり、国内の学術的な議論まで圧迫して、あらゆるひとびとに「30万人超か、無か」「敵か味方か」の二者択一を迫り、社会の分断を引き起こすのでは、日本にとってマイナスにしかならない。日本の国際的なイメージを守ることも結構だが、それで国内の言論環境を悪化させては元も子もあるまい。
南京事件はいまやひとびとを動員するシンボルだ。だから、政治的な「結論ありき」「数字ありき」の議論はこれからもなくならないだろう。ただ、それとは別に、覚めた目で歴史を振り返る態度も養っておかなければならない。
われわれは、南京事件のかならずしも当事者ではない。少し距離を取って、事態や研究の推移を見守ることもできる。このように受け流すことができるならば、少なくとも国内では、熱くならずに南京事件と付き合えるのではないだろうか。