「会社を辞めて良かった!」という40人の体験談をまとめた『さらば! サラリーマン』が刊行された。その中から2度の倒産を経験したがデータセキュリティ会社を起業・成功に導いた小路幸市郎さんの例を紹介する。
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35歳までパッとしないキャリアだった
正直なところ、小路幸市郎さん(56歳)のキャリアは35歳までパッとしない。1994年、35歳になってから情報漏洩防止システムなどを手掛ける会社、サイエンスパークを設立以来、人が変わったように経営に取り組み、今では「生来、社長の器」といった余裕さえ感じさせる。若いころの何と何を足して現在地に立ったか、不思議なほどである。
1959年、北九州市小倉北区の生まれ。地元の小・中学校に進んだが、学校は荒れ、盗んできたバイクで廊下を走り回る生徒も珍しくなかった。幸い小路さんはワル仲間にならず、授業についていけない同級生に勉強を教えたりした。この荒れた中学校で真剣に生徒に立ち向かう若い女性の先生と出会い、教師に憧れた。県立戸畑高校に進み、ここで教師から「俺は教師に向いてないけど、それでも教師をやっている。お前は根っから向いている」と教師になるよう勧められた。教えること、人を育てることが好きなことはこのころから自覚していた。
1977年高校を卒業し、神奈川県相模原市にある職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)に進んだ。労働省(現・厚生労働省)の所管で、職業訓練指導員を育成する学校だった。座学の他に実技が重視され、一般大学の講義が4年間で2000~3000時間のところ、ここでは5600時間。夏休みが2週間しかなく、電気工学科で実技を叩き込まれた。小路さんは今でも自分でハンダづけできる。
寮に入って4年間、1部屋3人の暮らしだった。周りは桑畑で、中心市街の橋本には歩いて30分も掛かった。入った硬式テニス部では、公式戦で28連敗するなど、さっぱり上達しなかったが、初・中級者の主婦などに教えることは得意だった。橋本にテニスクラブがあり、時給が1500円、小路さんが教える生徒は「継続率が高い」と買われ、月20万円ほどの収入になった。
稼ぎで寮の仲間に酒を奢るなどしたが、一時は教育心理学の単位を取り、訓練指導法を勉強。大学校を出た後、体育大学の大学院に進んで真剣に体育の教師になることを考えた。一方、授業で小型モーターの権威、見城尚志教授の教えに触れ、新技術を世に出す起業家になりたいとも願った。どういう世界に進むべきか、まだ進路を決めかねていたのだ。