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「父に愛されていたのは、私なんです」拳銃強奪事件・その他に見る、偉大すぎる親を持つ子の苦悩

2019/06/27
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偉大な親を持って苦労した人たち

「親が偉大」でいえば、それこそ長嶋一茂は「ミスタープロ野球」とまで呼ばれた長嶋茂雄を父にもつ。いい大人になっても自宅の壁に「バカ息子」と落書きされてしまう長嶋一茂であったが、高校時代、「長嶋の息子のくせに、下手だな」と野次られたという。

長嶋一茂氏 ©文藝春秋

 しかしそれは無理もない話である。長嶋一茂は9歳のとき、野球を止める決意をし、高校になってあらためて始めたのだから。少年野球をはじめるなり、「長嶋の息子」というだけの理由で、監督からは父親とおなじ「三番・サード」を担わされ、苦痛だったという。おまけに報道陣にまで囲まれる。

「マスコミの輪に囲まれたとたん、すっと友達がいなくなってしまう。これはきっと囲まれた人間じゃなきゃわからない、本当に寂しい経験なのだ」。9歳にしてそんな思いをし、「自分さえ野球をやめれば、このすべては終わる」ということでやめてしまう(注2)。そこで父親や自分の境遇を恨んだり、グレたりしても不思議ではない。

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 ところが、野球をやるのが宿命であるかのようにふたたびグラウンドに戻り、プロにまでなってしまうのだからたいしたものだが、それでも「親の七光り」と思われがちなのだから、気の毒な話である。

 これまた野球選手親子の話だが、野村克也の息子・野村克則は現役時代、結果が出なければ、「監督にひいきをされて試合に出ている」とマスコミに叩かれ、逆に活躍すると「カツノリの活躍が、チーム内に不協和音を生む」と叩かれる。「いったいオレはどうすればいいんだ」、そう思ったこともあるという(注3)。

両親に暴力をふるいながら、「おれの人生はなんだったんだ」

 なにをやっても親がついてまわる人生がある。親は親、子は子とわかっていながら、周囲は身勝手にも、子供が親のようになるものだと期待し、それがプレッシャーとなって、ときに人生を歪ませてしまう。親は親で、子が弱みや悩みになりもする。

©iStock.com

「どんな家にも問題はある」とは、森健による小倉昌男の評伝『小倉昌男 祈りと経営』にある有名な一節だ。成功した起業家であっても、いくらカネがあっても、どんな家庭にも問題はある。

 それは老境をむかえた元エリート官僚の家も例外ではなかった。

「おれの人生はなんだったんだ」。農水省元事務次官のニュース記事の見出しでこの言葉をみたとき、てっきり事務次官にまでなりながら殺人者に堕ちた父親の発言かとおもってしまったのだが、実際は息子のものであった。そう叫びながら両親に暴力をふるったという。息子のみならず、父も母親も、それぞれの心うちにこの言葉があったろう。こうまでひとを苦しめる親子とはいったいなんなのかと、おもってしまう。家族とは「業」であるかのようだ。

 

(参考)週刊文春2019年6月13日号・20日号・27日号
(注1)児玉博『堤清二 罪と業』文藝春秋・2016年
(注2)長嶋一茂『三流』幻冬舎・2001年
(注3)野村克則『プロ失格』日本文芸社・2011年

「父に愛されていたのは、私なんです」拳銃強奪事件・その他に見る、偉大すぎる親を持つ子の苦悩

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