「応接室の前を通りかかると、ノルマを果たせない課長代理を上司が怒鳴りつけているのが見えた。課長代理の横には奥さんが座っていて、上司の怒りの矛先は彼女にも向けられた。

『こいつのために、みんなが迷惑しているんです。奥さん、どうにかしてください』 」

 ひとを精神的に追い込む天才かよと思ってしまうところだが、これは往時の野村證券の過酷さを物語る逸話として、横尾宣政『野村證券 第2事業法人部』(2017年)に載るエピソードである。「パワハラという言葉など、まだ影も形もなかった時代」の話だ。

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当時の感覚でいえば「社会の厳しさ」

 なにしろ「パワハラ」(パワーハラスメント)は2001年になって生まれた和製英語である。名付けられることで、はじめてそれが悪行だと明確にされたわけだが、語彙「パワハラ」誕生以前、こうしたものを世の中はなんだと思っていたのだろうか。

「社会の厳しさ」である。

「愛という名のもとに」という連続ドラマがあった。1992年に放映されたもので、大学ボート部の仲間たちが卒業後に社会に出て、そこで葛藤するというもの。そのひとり「チョロ」は証券会社に就職するのだが、厳しいノルマに追われ、上司から営業成績について詰められる苛烈な様子が話題となった。そしていろいろあって最期は首を吊る。

 大人の世界の理不尽の渦に若者が呑まれる物語……大仰にいえばそうだが、当時の感覚でいえば、これも「金融業界ってたいへんねえ」という話であり、これも「社会の厳しさ」のうちであったろう。

「パワハラ防止法」が成立

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 また今にしてみれば、当時持て囃されていた「体育会系」の蹉跌ともとれる。「体育会系」とは大学運動部のことだが、厳しい上下関係や上に服従するノリのレトリックとしても用いられる。「うちの会社、体育会系のノリだから、飲み会とかたいへん」という具合にだ。

 社会とは理不尽なものであり、それに順応する者が求められる。「体育会系」人気もその一端であったろう。それが時を経てパワハラと呼ばれ、よからぬこととして認知されていき、そして今年5月、「パワハラ防止法」が成立するにいたる。しかし業務上の指導との線引きが難しいとする企業側の意向を受け、罰則規定は見送られた。学校でいえば「体罰と指導」、大相撲でいえば「かわいがりと稽古」と同様に、企業ではそこを曖昧にしておきたいのだろうか。