元サッカー日本代表FWのドラゴンこと久保竜彦さんと待ち合わせたのは、山口県・光駅。ここでインタビューをして、本土の対岸にある牛島に船で一緒に渡ることになっていた。が、現れたのは、奥様ひとり。聞けば、午前の便で先に島に渡ってしまったのだという。肩すかしをくらった取材陣は、午後の便でドラゴンを追った。(全3回の1回目/#2#3も公開中)

 連絡船に乗って20分、緑におおわれた島が近づいてくる。瀬戸内海に浮かぶ周囲12キロの牛島(うしま)。島民は40人ほどで、漁業がその主な産業だ。クルマは一台もなく、車道も存在しない。喧噪とは無縁の自然あふれる島だ。

 久保さんは、いま、この島で塩づくりをしているのだ。

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牛島港と連絡船「うしま丸」

 牛島港に降り立ち、数分、歩を進めると、ゆらゆらと湯気を吹く木造の塩釜小屋が目に飛び込んでくる。が、ここにも、久保さんはいない。小屋の主に聞くとふらっと出て行ったままで、おそらく、浜にいるだろうという。

 山の小径を上り、海岸に降りると、果たしてそこにウィンドブレーカーを纏い、サッカースパイクを履いた久保さんはいた。天然岩牡蠣を探していたのだという。それは、我々を迎えるために用意しようとした牡蠣だった。

 

元日本代表FWがなぜ「塩づくり」を……

――久保さんがJリーグを経て、中国リーグの廿日市FCを最後に現役を引退されたのが2015年。なぜ、牛島で塩づくりをすることになったのでしょう?

久保 もともとじいちゃんとばあちゃんが福岡の山の中でブドウをつくったりしてて、自分も山で遊んでいて、どこか気持ちいいところがないかなあって、引退してからずっと探していたんです。現役時代にも、豚肉とか鶏肉とか、いい食い物を探してて、いろいろ回っていました。石川の山の中とか、宮崎の椎葉村とかも食材探しで行ったりして。

 食べ物に興味が出たのは、26歳のときに、断食を始めてから。それまではカップラーメンも食っていたし、ごく普通のものを食っていた。でも、その頃、腰を痛めていて、ある日、マリノスのフィジカルコーチに山形にある断食道場に連れていってもらったところ、身体がすっきりした。それから、やっぱ食は大事だなあって思うようになって。そこからはずっと食材を探しながら、サッカーをやめてからこの土地は住めるかな、住めるチャンスはあるんかな、と引退後に暮らす場所も探していたんです。