『壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分』(尾脇秀和 著)

「江戸時代は、色々な種類の史料がたくさん残されている時代です。裁判記録はもちろん、村の庄屋がつけた日記も残っています。侍も、同僚のことを罵(ののし)って“さっさと帰るあいつの仕事、結局オレが全部やっている”などと愚痴を日記に書き付けていたりします。10年以上、古文書を読む仕事をしてきましたが、そういうごく普通の人々の暮らしを知ることが、私にはとても面白いんです」

 と、日本近世史を専門とする歴史学者の尾脇秀和さんは語る。10年にわたる研究成果を『壱人両名』として最近刊行した。いまの日本では、戸籍は一人一つしか持てない。ところが江戸時代には、百姓や町人でありながら武士であったり、あるいは武士でありながら町人であったり、複数の名前や身分を同時に持っている人たちが結構いた。

 尾脇さんがその存在に気がつくきっかけになったのは、京都郊外の農家、大島家の古文書だった。

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「もともとは江戸時代の村医者の研究のために古文書を調べていました。大島家は利左衛門と名乗る百姓ですが、一方で公家には侍として、大島数馬と名乗り仕えていた。名前だけ見ると別人なのですが、古文書の名前の筆跡も実印も同じであることに気がつき、あれ、この百姓と侍は同じ人じゃないか、それも同時に2つの名前を使い分けている、と。その後、当時こうした形態が壱人両名と呼ばれていたことがわかり、これを調べはじめたのですが、出るわ出るわ(笑)。百姓の彦兵衛が、別の村では同時に仁左衛門でもあったりと、いろいろなケースが出てきました。

 公家に仕える侍は、俸給が三石で、“三石さん”とバカにされているほど安かったのですが、当然暮らしていけないこともあり、短期間でやめる人も多かった。利左衛門の場合は農家としての収入があるので、大島数馬としての侍勤めを代々続けられた。どちらでもあることには、現実的な事情もあります」

 利左衛門以外にも、にわかには信じられないような事例が多数紹介されている。たとえば、吉田平十郎は、はじめ御家人の身分(与力株)を買って水野定八となったが、その株を売って浪人となり金貸しをはじめ、さらに旗本宇垣寅之助になりすましたうえで、旗本前島家に養子として入った……。当時は、お金を払えば武家の養子になることもできたのだ。しかも前島寅之助となってからも、吉田平十郎として金貸しを続け、身分と名前を使い分けていた。本書を読みすすめるうちに、江戸時代の身分制度についての固定観念がぐらぐらしてくる。

尾脇秀和さん

「私たちが子供のころは、『士農工商』という固定された身分制度があって……、などと学校で教わっていましたし、いまも一般にはそれを信じている人が多い。でも現代の研究者の間では、そのかつての常識はとっくに否定されています。壱人両名は、身分の移動や売買が当然であることが大きな前提となっています。身分と名前は“株”として他人の手にも譲渡されながら引き継がれていくものでした。

 そもそも、江戸時代の“家の継承”についての考え方は、現代とだいぶ違います。系図のうえではつながっているように見えても、武家の“株”、百姓の“株”を得た人が、建前として“血縁者”の体裁を整えて継いでいるだけで、実際には血がつながっていないことはよくありました。“直系相続”にこだわる現代の人たちには、この事実は受け入れにくいかもしれませんね」

おわきひでかず/1983年、京都府生まれ。佛教大学大学院文学研究科博士課程修了、博士(文学)。現在、神戸大学経済経営研究所研究員。佛教大学非常勤講師。他著に『刀の明治維新――「帯刀」は武士の特権か?』(吉川弘文館)等がある。