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『いだてん』神回「#人見絹枝に泣いた」日本女子初メダリスト、24年間の生涯とは

2019/07/07

日本女子初のメダリスト誕生の瞬間

 人見は力走を続けて先頭のラトケに追いつくと、ゴール直前で死闘を繰り広げた。2分16秒8の世界新記録でゴールに飛び込んだラトケにわずかに及ばず、2分17秒6でゴールイン、自らフィールドに敷いておいた毛布をやっと探り当てると、そのまま倒れ込んで意識を失う。フィールドで競技中だった織田と南部はすぐ飛んで行って人見を助け起こすと、三段跳びのピットまで連れていって休ませた。このあと、意識を取り戻した彼女は、スタジアムの3本のマストの左に掲げられた日章旗を見て、《ああ、これで幾分の責任を果したのだ! よく走れた! もう思うこともない》と止めどもなく涙を流した(※3)。日本女子初のオリンピックメダリスト誕生の瞬間である。これに続けて織田も日本勢で初めて金メダルを獲得した。

アムステルダム五輪800mで銀メダルを獲得した人見 ©getty

 アムステルダムから帰国した人見を待っていたのは、全国各地より依頼された講演会・講習会だった。あまりのハードスケジュールに彼女はしだいに激しい疲労に襲われ、練習する気力を失くし、ついには引退も考えた。翌1929年の年明けには、FSFI会長のアリス・ミリアへの手紙のなかで、「アムステルダムから帰国後、体の調子がよくなく、来年のプラハでの第3回国際女子競技大会では会えないことを淋しく思います」と苦しい胸のうちを訴えた。これに対しミリアからは驚くほど早く返事が届き、「多くの人々は、あなたの技術がいま最高に達せんとしていることをよく知っています。いまこのスポーツ界を退くなどということは大きな罪であると思いませんか」「もとの元気さでプラハへぜひとも姿を見せてください」と叱咤激励される。これに人見は再び奮起した(※4)。

講演会ラッシュの無理がたたり、24歳で息を引き取る

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 3度目のヨーロッパ遠征となった1930年のプラハでの国際女子競技大会には、若い5名の選手たちの主将兼マネージャーとして出場した。そこで人見は走り幅跳びで優勝するなど1人で12点を獲得し、リレーチームではさらに1点追加して、日本を参加18ヵ国中4位に位置づけた。このあと、各国との対抗競技大会のためヨーロッパ各地を転戦して帰国の途に就く。だが、プラハに着く前にひいた風邪を押して全力を出し切った彼女は、すっかり憔悴していた。それにもかかわらず、帰国後はまたしても休む暇もなく講演会で各地を飛び回る。その無理がたたり、人見は1931年3月、とうとう病床に臥し、半年も経たない8月2日、大阪市内の病院で息を引き取った。まだ24歳の若さであった。