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人見のあと、日本から女子陸上のメダリストは64年間出なかった

 人見の死から33年後の1964年、東京オリンピックが開催された。このとき、聖火が岡山を通る際、父・猪作は「絹枝よ、これがオリンピック聖火だ」と両手に抱いた娘の遺影に語りかけたという(※4)。

 アムステルダムオリンピックのあと、800メートルは女子にはあまりに過酷すぎるとの理由から1960年のローマオリンピックで復活するまで中止された。日本の女子陸上選手から人見に続く五輪メダリストが出るまでにはさらに時間がかかり、1992(平成4)年のバルセロナオリンピックまで待たねばならなかった。この大会の女子マラソンで2位に入賞した有森裕子は、岡山高女出身の祖母から1年先輩の人見のことをよく聞かされていたという(※5)。奇しくも有森がメダルを獲得した8月2日(日本時間)は、人見がアムステルダムで銀メダルを獲った日であり、そして命日でもあった。

※1 『テレビブロス』2019年8月号
※2 大河ドラマ『いだてん』公式アカウント(@ nhk_td_idaten)
※3 織田幹雄・戸田純編著『炎のスプリンター 人見絹枝自伝』(山陽新聞社)
※4 勝場勝子・村山茂代編著『二階堂を巣立った娘たち――戦前オリンピック選手編』(不昧堂出版)
※5 有森裕子『アニモ』(メディアファクトリー)
このほか、小原敏彦『KINUEは走る 忘れられた孤独のメダリスト』(健康ジャーナル社)なども参照しました