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17歳のとき、三段跳びと槍投げで世界記録

 岡山高女ではまた、体育の授業で走り幅跳び・三段跳び・槍投げ・砲丸投げなど陸上競技の各種目の指導が行なわれ、人見はいずれの競技でも日本記録レベルの記録を出した。最終学年の4年生になっていた1923年11月には、体育教諭の杉田常四郎に懇願されて、岡山県女子体育大会に出場、走り幅跳びで4メートル67という非公認ながら当時の日本女子の最高記録を出して優勝する。これがのちに彼女が陸上競技に進出する動機となる。

 1924年春、岡山高女を卒業後、人見は和気昌郎校長と杉田教諭の熱心な勧めにより、上京して二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)に入学する。もっとも、同塾の創設者である二階堂トクヨ(『いだてん』では寺島しのぶが演じている)には、スポーツ選手を養成するという考えは皆無だった。人見は二階堂の教育方針に失望し、一時は退学も考えたという。だが、この年の秋、彼女が岡山県から直々に同県の女子体育大会への出場を要請されたと知り、二階堂も考えを一転する。10月に行なわれた同大会において、人見は三段跳びで10メートル33の世界記録を出した。女子体育の発展のためにはトップアスリートの養成が不可欠だと気づいた二階堂は、このあと人見に陸上競技の練習を正式に許可する。

人見絹枝

「大阪毎日新聞の記者」と「アスリート」、二足のわらじ

 1925年3月に二階堂体操塾を卒業した彼女は、京都市立第一高等女学校に1学期だけ勤務したのち、体操塾の研究生を経て、大阪毎日新聞社に入社した。以後、人見はアスリートとして活躍するとともに、運動部記者としてもヨーロッパ各地のスポーツ事情などを取材して伝え、そのなかで日本の女子スポーツ振興のための提言も行なっている。

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 人見は生涯に3度、世界の檜舞台に立った。最初は1926年8月、スウェーデンのイエテボリで開催された第2回国際女子競技大会に日本からたった1人で出場したときだ。同大会は、まだオリンピックが女子にほとんど門戸を開いていなかった時代にあって、国際女子スポーツ連盟(FSFI)会長のアリス・ミリアの提唱により、1922年、第1回女子オリンピックとして始まった。第2回大会を前に、2年後の1928年のアムステルダムオリンピックで女子の陸上競技5種目が試験的に採用されることが決まり、これを機に女子オリンピックから改称。人見はこの第2回大会で、走り幅跳びと立ち幅跳びで優勝するなどの活躍を見せ、その名を世界に知られるようになった。