泥田に頭を突っ込んで死亡も……抵抗した農民1000人
この間、農民側はメディアに実情を訴えるなどして運動を継続。訴訟は同年4月に和解が成立したものの、真島ら地主は再び「耕作禁止、土地返還、小作料請求」の本訴を起こした。2年後の26年4月、真島らに勝訴判決。5月4日、立ち入り禁止が執行された。地元紙「新潟新聞」(当時)を見よう。「六百の小作人が警官隊と大乱闘 土地返還耕作禁止執行 妨害罪として十数名逮捕 けふ木崎村の騒擾」が見出し。「春光まばゆくばかりの木崎全村は殺気立ち一大修羅場を演じ百数十名の警官隊と泥まみれの小作人と立ち廻りは……」。結局、29人が公務執行妨害などで起訴された。小作地の周りに農民約1000人が集まって抵抗し、警官隊との衝突で数十人が検挙され、29人が公務執行妨害などで起訴された。この時も、1人の農民が抗議のため、泥田に頭を突っ込んで死んだとする資料もある。
前年に普通選挙法と抱き合わせで治安維持法が成立。この年は労働争議が頻発する一方、松島遊郭疑獄、陸軍機密費横領事件など、政治も社会も騒然としていた。木崎村の農民運動はその後も続き、女性たちは活動資金の一部にと、真島の肖像入りの「真島パン」を焼いて行商で販売。子どもたちの間では童謡「うさぎとかめ」の歌詞「もしもしかめよ」を「もしもし真島桂次郎」とした替え歌がよく歌われたという。
激しい乱闘も実らず……「敗北」に終わった木崎村小作争議
その真島が北蒲原郡の教育会会長に就任するのに抗議して、小学校で同盟休校が始まり、26年7月19日には、郡内13小学校の学童3000人余りが同盟休校に突入した。そこから、農民組合の支援や現職教師、大学生らの協力で無産農民小学校設立が実現するまでは、自身が現地に入って子どもたちを教えた大宅壮一による本編に詳しい。しかし、上棟式を兼ねた開校式当日7月25日の検挙の影響は大きかった(「新潟県史」では「参集者約1万人、25名検束」となっている)。
「東京朝日新聞」の26日朝刊の記事には、開会の合図に大きな釜を打ち鳴らしたという牧歌的な風景描写の最後に「夜は示威行列あり警官と衝突して不穏を呈した」とある。27日夕刊では、参加者の一行が「農民歌を高唱して示威運動をなしたので」警官隊が解散させたところ、農民らが真島宅に押し掛けようとしたため乱闘となり、三宅ら「二十余名が検束された」と報じた。県の説得で農民学校は解散。28年の「三・一五事件」弾圧の影響もあり、政党の離合集散のあおりで農民組合は分裂した。結局、30年7月、農民側が小作料を支払うことで和解。争議は農民側の敗北に終わった。
「私どもはただ人間であることを認めてもらいたいのだ」
「日本残酷物語」は「農民が土地をうばわれてはもはや農民ではない。地主側の耕作地立ち入り禁止の成功は、やがて小作人たちのたたかいの手段を完全に封じ込めたことになる」と書いた。農民にとって土地が全てであり、そこから切り離されては生きていけないということだろう。現実が「弱い者が強い者に勝つ」勧善懲悪の時代劇のようにはいかないのは、昔もいまも同じなのだろうか。昭和恐慌と農村の窮乏が深刻化していた。林芙美子の「放浪記」が刊行されたのもこの月。地主と小作人の関係が根本的に変わるのは、戦後の農地解放まで待たなければならない。
それでも、木崎村の闘いはムダではなかった。経済学者・猪俣津南雄が34年に現地踏査してまとめた「窮乏の農村」(改造社)には、「(木崎村を含む)蒲原平野地方は、現に全国的に見ても農民組合の力の強いところだが、この辺の小作料は、組合のある村では大体収穫の二割五分見当になっている」と書かれている。「闘いによって目覚めた農民は、再び地主の前に平身低頭するばかりの農民ではなくなった」と「県史」も認める。争議のさなか、農民の1人は東京での集会で、「県史」が「争議の核心」と指摘した言葉で心情を訴えた。
「私どもはただ人間であることを認めてもらいたいのだ」
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