「加害者」と「被害者」は容易に反転してしまう
ポイントは二つある。まず第一に、多様化しフラットになってきているこの社会では、加害者=強者と被害者=弱者は容易に反転してしまうということだ。
たとえばトランスジェンダーをめぐる問題。LGBTの「T」であるトランスの人たちは性の多様性のひとつだが、一部のフェミニストから差別・排除されてしまうような事態が日本でも起きている。TERF(ターフ、トランスジェンダー女性に排斥的なラディカルフェミニスト)という用語まであるほどだ。フェミニストが社会から排除された弱者であり、トランスジェンダーもフェミニストに排除される弱者だとしたら、その二つのあいだで生じる差別問題では、どちらが弱者なのだろうか? そしてこの衝突の中で、トーンポリシング批判はどちらにつけば良いのだろうか?
Rebecca Vipond Brinkというライターが、The Friskyというメディアに「トーンポリシングと名指しすることは、トーンポリシングになる(Calling Out Tone-Policing Has Become Tone-Policing)」
という記事を書いている。彼女はこのトランスジェンダーとフェミニストの衝突を取り上げ、こう指摘している。
「トーンポリシングという用語はすでに終わっている。いや、そもそも一度でも始まったことがあったのかさえ、私には自信はない。誰かに対して『あなたは誰からも異論を言われずに、怒りたいだけ怒って自分自身を表現する権利がある』と言った場合、それは本質的に『あなたが怒りをぶつけた相手には、怒る権利はない』と言っているのと同じだ。だからトーンポリシングが女性やLGBT、有色人種などのグループの間で投げつけられるようになると、とてもヤバイことになる」
相手に対して怒れば、相手も当然のように怒り返してくる。互いに「それはトーンポリシングだ!」と怒り合う、という不毛な絵ができあがってしまうのだ。
「キモくてカネのないおっさん」はもはや強者ではない
日本では中年男性、つまり「おっさん」は社会における圧倒的な強者だった。しかし就職氷河期世代が40代なかばに差し掛かっているいま、弱者である中年男性が増えている。通称「キモくてカネのないおっさん」と言われている社会問題がそうだ。もはや彼らは、古い時代の加害者=強者ではない。もし仮に、キモカネおっさんと在日韓国人が互いに感情的な怒りをぶつけ合う場面がやってきたとしたら、トーンポリシング批判はどちらに向けられることになるのだろうか? それともどちらも怒鳴り合うまま放置しておくしかないのだろうか?
それへの答えとしては「どちらも包摂できるような社会を作っていきましょう」というしかないと思うのだが、これをトーンポリシングの話に落とし込んでしまうと、とたんに最強のホコと最強のタテのような身動きできない構図に陥ってしまう。加害者・被害者がつねに入れ替わる可能性のある社会では、トーンポリシングはもはや万能ではないのだ。